夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —77箇条の提題要約(その1)

夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —77箇条の提題要約―

                                                                                           千葉 惠

 

はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見

 なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがら即ち神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。

 ここでは神の義と信じる者の義認をめぐる神ご自身の「知恵と認識」(11:33)がパウロにより神の前のことがらとして報告されており、従来のように人の前のことがら例えば人が持つどの程度の信仰が神に義と看做されるか等の人の心的態勢は問題とされてはいない。

 「ローマ書」のこの箇所をめぐる一つの結論はこの分離のなさの啓示の故に、神の意志即ち神が義でありそれにふさわしい人間の正しい在り方を啓示し知らしめたモーセの「業の律法」(3:27)とは別に「しかし今や、[業の]律法とは分離されて」(3:21)、今や神の義とは「分離がない」仕方で啓示されている「信の律法」(3:27)のほうが神にとっても人にとってもより根源的な正義であるということである。かくして、律法の「冠」(13:9)である神への愛と隣人への愛は信の律法のもとに変換され「愛を介して働いている信」が「力ある」ものとなる(Gal.5:6,Rom.5:8)。愛は「キリスト・イエスの憐みのうちにある」「義の果実」である(Phil.1:8-11)。

 そこでは信を根底とする信の律法のもとに「裁くな」が直截に命じられることになる(Mat.7:1,Rom.2:1)。ひとが自分たちのあいだで審判しあうことは「業の律法」の枠のなかで生きるという意味において「同じことをしている」(Rom.2:1)ことになり、「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(8:2)また「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)はずの解放と贖いから「再び奴隷の軛」に繋がれ「罪の奴隷」になることだからである(Gal.5:1,Rom.6:20)。或いは例えば、自ら信仰を持つことは神を利用するエゴイズムではないかという懐疑は「貪るな」というモーセの十戒の枠のなかで信仰を捉えることであり、やはり業の律法に取り込まれているからこその懐疑である(Rom.7:7)。「信じない者ではなく信じる者となりなさい」(John.20:27)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられるとき、神が父と子の協働行為のもとに為し遂げた「キリストの愛」(8:35)、「御子の福音」(1:9)の恩恵に眼差しをむけさせ、そこにこそ新たな時代を作る力があると告げられている。この福音のダイナミズムこそ21世紀の宗教改革を推進する力である。

 この発見はカトリックとプロテスタント和解の鍵を見出したことに他ならないと思われる。トマス・アクィナスの神学体系に基礎を置くカトリック教会は神の前と人の前を分け、アリストテレス倫理学の相対的自律性のもとに聖人に至るまでの人格的有徳性の蓄積を認め、神と人間の関わりを説明する総合的かつ包括的な思想体系の構築に勤めた。確かに、責任ある自由のもとにある人間を前提にする限り、人間的には有徳な者や悪徳な者がいるということを到底否定できず、地に足の着いた天的なものへの架橋は不可欠なことであり、それ自身恩恵のもとにあると理解することは神が宇宙と人間の創造者にして統帥者である限りにおいて道理あることである。

 他方、プロテスタントは神の前と人の前を媒介するイエス・キリストの信の根源性に集中し、ルターは「信じることは神の働きである」即ち信じせしめられることであるとし、神の前と人の前が常にキリストのまた聖霊の媒介行為により繋がれていると主張する。またカルヴァンは神の恩恵の働きである義認と人の人格的な成長である聖化を分離することを「あたかもキリストを引き裂くことだ(quasi Christum discerpere)」と主張した。

 プロテスタントはその都度信じることは信じせしめられることであると主張し神の前と人の前を分けないことこそ神の福音であると主張する。彼らは純福音が散逸している当時の歴史の趨勢の中でキリストの福音に集中を余儀なくされたのであった。他の仕方での神へのアクセスは「神の恩恵を無視する」ことになる、そこでは「キリストは空しく死んだ」ことになる(Gal.2:21)。確かに、信じるとは今・ここでキリストを介して神に愛されていることを信じることである限りにおいて、プロテスタントは今・ここで執り成しの働きにおいてあるイエス・キリストと聖霊の媒介にその都度集中することは正しいことであると思われる。生きるとは神の前に生きることに他ならないからである。

  カトリックとプロテスタント双方の和解は普遍的な理論(ロゴス)上の分節と個別的な今・ここの働き(エルゴン)上の不分離がイエスやパウロの「言葉と働き」に見いだされる限り、双方は和解しうると思われる。双方ともパウロの神学の中心的教理を展開する当該箇所(3:21-26)をVulgata翻訳以降の一様の誤訳の故に適切に神の前の事態、即ち神ご自身による「神の知恵と認識」(Rom.11:33)を析出することに失敗し、それが単に所謂信仰義認論のみならず神の前と人の前の分節と総合をめぐる双方の理解の齟齬を大きなものにしたと思われる。当該箇所が信義不分離をめぐる「神の知恵と認識」のパウロによる一般的な報告であったことが解明されるとき、これまでの双方の人間観の理解の異なりや齟齬を神による人間「認識」との関係において明確に提示できることになろう。

 一方、聖書においてはロゴスとエルゴンを媒介するものは、その人が語りうる究極の言葉とその働きのあいだに乖離がなかったナザレのイエスの信の従順である。これが神の前で神によりイエス・キリストにおける信義不分離のエルゴンとして嘉みされ、信に基づく義の信じる者すべてへの神の前における普遍的なロゴスとして適用されるに至っている。アリストテレスによれば哲学においては秩序ある働きを観察することができる限り、ロゴスは何等かエルゴンに内在しており、或いは個々のエルゴンから秩序ある普遍的なロゴスを析出することができており、そのロゴスとエルゴン双方の存在様式「完成(entelecheia)」が双方を媒介する。哲学においては双方の媒介は成功した視点から語られている。

 21世紀の宗教改革においては人間本性の解明をめぐる人類の知的そして人格的な歴史の蓄積を踏まえ、神を愛する者と真理を真理それ自身のために愛する者双方が同意しあい協調しあう者である限りにおいて、力ある仕方で遂行されるであろう。キリストへの集中は宇宙に秩序をもたらすロゴスの真理への探究と共鳴和合するものであり、キリストによる救いの探求と秩序ある存在の様式である完成への探求とはロゴスの真理への信によりまたエルゴンの証の蓄積により相補的、補完的なものとなり説得力を増すであろう。パウロは「ガラテア書」において言う、「私は神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。私はキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはや私は生きてはいない、キリストが私のうちに生きている」(Gal.2:19-20)。パウロにおいてはキリストが自らの内に生きており、自らのロゴスとエルゴンの媒介者であると主張する。その媒介者キリストが存在論的には完成という存在様式においてあるロゴスである限りにおいて、福音の真理はすべてのひとに妥当する真理となるであろう。

 パウロが「福音」とは「[君たちと]共に与る」べき何ものかであると語る時、福音は父と子の協働行為により自己完結的なものとして提示されている(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとはただそれに与ることが求められている。神の前ではその信義不分離の啓示のもと予め憐みの器と選ばれたその信仰が嘉みされるすべての者が義と看做されている。「神の知恵と認識」を伝える福音の言葉とそれによる相対的自律性のもとにある人間の知的、人格的営みの秩序づけ、それへの収斂にむけて、その解明の出発としてこれまでの人文学の知見を生かし、文学や歴史学、倫理学、哲学そして神学等の理性の導きにより人の前の人間認識と神の前の人間認識の関係を開示すべくナザレのイエスをめぐりその媒介性の探求を遂行したい。

 21世紀の宗教改革は、宗教改革の名に値するためには、詩人が「地の果てまで戦いを絶ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われる。力を捨てよ、知れ私は神」(Ps.46:10-11)と力強く歌うように、今日まで続く理論上の争いをやめさせることをまずその目標とする。ただそれだけではなく、ナザレのイエスはガリラヤの野辺を歩きながら「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と語り、「神の子の信によって」(Gal.2:20)死に至るまで信の従順を貫き、人間は誰であれ「天の父の子となる」(Mat.5:43)ことがその本来性であると宣教した。この運動は言葉と働きにおいて神の国を自ら持ち運んだイエスの御跡に従い、福音がユダヤ人のみならず異邦人にも人間の本来性を伝え生命を持ち運ぶものとなるその一助となることを使命とするものである。なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがら即ち神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。

 

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