Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎(その2)

 (はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見(その1)承前)

1.宗教改革運動がそこに基礎づけられ展開される言葉と働きの補完性

1.1 ナザレのイエスの言葉と働き

福音の宣教

 21世紀の宗教改革は疑いもなく、聖書が証言するナザレのイエスの言葉と働きにその基礎を持つ。そこからユダヤ人にも異邦人にも受け入れられる力ある普遍的な言葉が生み出され、そこから人々の間で生命と力に満ちた肯定的な働きが生みだされるそのような基準点がイエスの言葉と働きである。パウロは「ローマ書」において「御子の福音」(1:10)を理論的に伝えており、本稿の目的はキリストの言葉と働きが神の救済の歴史のなかでいかなる役割を担っているかを明らかにすることである。

 イエスの言葉と働きにおいて最も著しいのは彼が神の福音を宣教するものでありかつ自ら宣教される者であるということである。この宣教する者と宣教される者が同一者である、福音を語る者が福音の内実であるという尋常ならざる事態が人々を今日まで動かし従わせしめた救いの源でありまた離反せしめてきた躓きであるところのものである。

 ナザレのイエスは「彼に群がって聞き」にくる群衆にエルサレムの神殿やシナゴーグにおいてそしてガリラヤの野原や山上において何を語り、何を教えていたのであろうか。彼はアブラハムやイサク、ヤコブのイスラエルの族長たちに導かれた歴史の帰趨について、そして神のみ旨・み心(thelēma)は、モーセに啓示された律法を介して知らされていることまたイザヤやヨナ等の預言者たちの働きを介して知らされていることを語り教えた。彼は時空の外にいて天地を創造し、永遠の現在のもとに一切を知っている全知全能の「天の父」とそのみ旨について語った(Mat.19:26,Ps.139)。彼は天の父のみ旨を知っておりそれを教えようとした(ただし、終わりの時を除く(Mak.13:32))。彼は「天の父のみ旨を行う者が天国に入れていただく」ことを直截に語った(Mat.7:21)。彼は律法と預言者を通じて聖書に伝えられる神のみ旨・意志は自らの受難と復活において実現されると語り、神の国の福音の内実は自ら自身のことであると教えた。「祝福されている、君たちの目と耳は、というのも君たちの目は見ておりまた耳は聞いているからだ。まことに私は君たちに言う、多くの預言者や義人は君たちが見ているものを見たかったが見ることができず、君たちが聞いていることを聞きたかったが聞けなかった」(Mat.13:17)。

 イエスがユダヤ教の改革者として始めた宣教活動は福音・善き音信、即ち神の国の救いを伝えるものであった。「イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた」(Mak.1:14-15)。イエスは聖書に即し福音を「イスラエルの失われた羊たち」に伝えることにより宣教活動を始めたが、彼は人々の信の従順に出会い、信の根源性の故に異邦人に対しても伝えたことが報告されている(Mat.15:21-28)。聴衆には悔い改めてこの新しい教えを信じるように促した。

 それが彼の短い宣教活動の内実であるが、その前提にイエスは聴衆が神のみ旨を知ることができそしてそれをなんらか遂行できると考えていた。福音は自らを介して実現されるものであり、「福音」はパウロによれば、「信じる[と神が看做す]者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:4)。ナザレのイエスはその力能を自らの身辺に一挙手一投足において実現した(Mat.12:28)。

 

宣教しかつ宣教される同一者の四種類の語り

 イエスの語りは複層的であり、概して四種類に分類されよう。(1)宣教する者と宣教される者が同一であることに基づき自己言及的に語られる。(2)神の憐みは天と地の連続的なものとして光や野の百合空の鳥など自然事象の比喩を介して語られる。(3)天と地の不連続性は人間事象の不十全性、悪や罪に由来するが、地上のものごとの譬え話によりまた歴史の帰趨をめぐる自らの預言や警告、叱責により架橋が試みられる。(4)自然事象、人間事象についての一般的法則が語られるが、この次元での発言が主に福音を一般的に支える倫理的な法則性を導出させる。

 福音書が報告するイエスの言葉の(1)自己言及が極めて特徴的である。神の国の福音を宣教しつつ、その媒介者である自らを語る。彼の言動そのものに神の国が何らか今・ここに現在しているそのようなものがこの自己言及である。聖書への尊敬のなかで聖書に基づく歴史の帰趨が自らに結実するその認識が語られている。「聖書全体」がイエスを預言しまたイエスにおいて成就されそしてイエスを介して理解可能なものになるとイエス自身により発言されている。

  イエスはガリラヤの野辺においては信の従順の生涯の途上にある。彼はまことの人として(旧約)聖書に記されていることに基づき、神のみ旨を忖度し自らの生を最善の行為選択肢の認知と実践においてその都度構築していった。イエスは自らの生涯が聖書に即したものであるとともに、その預言と律法の成就であるという自己認識のもとに一挙手一投足を歴史に刻んでいた。聖書全体が新しく福音のもとに位置づけられる。この福音の言葉の自己言及性は福音の事象が神とイエスの協同作業であり、自己完結的なものであることに基礎づけられる。パウロが「福音に[君たちと]共に与るために、福音のために私はいかなることをも為す」と語るとき、信じる者に救いをもたらす福音とは何かひとにより与(あずか)られるものであり、福音それ自身は自己完結的なものであることを含意している(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとは自己完結的なものに対しては、例えば修繕の要のない完璧な家があり、その家は清らかで争いも病も死もないと言われ招かれたたとしてひとはどうするであろうか。

 福音書に報告されているイエスの言葉には理論的教説の展開は見られない。彼が語る言葉はユダヤ教の預言者と律法の伝統のなかで言い伝えられる教えを取り上げ、それを先鋭化したものであり、また自然事象に訴えるものであり、譬え話により具体的に教える。これらはすべて天の父のみ旨がいかなるものであるかを教えるものであると同時に、それは話者であり媒介者であるイエスとの信頼関係の醸成を目的としている。それもすべて心魂の根底における「その通りです、本当です(ita est, verum est)」という承認と同意そして信頼が問われている。その意味ではどこまでもイエスと聴衆者の一対一の関係が基本である。この点について譬え話が著しい役割を発揮する。

 

イエスの自己言及と天と地の連続と断絶

 神の(2)憐れみは善人にも悪人にも等しく太陽を昇らせ雨を降らせ自然の恵みに与らせてくださる自然事象を介して確認される(Mat.5:45,6:25-26)。人間がこのような生物的与件を持ち宇宙や神について考察することができること、愛することができること、これは自然を介した神の憐れみに他ならない。天の父の憐みは天地の連続性の前提のもとに地の上のホモサピエンスに種として等しく注がれる。他方、イエスは地上の(3)譬え話により天国がどのようなものであるかを語る。それは天と地の分け隔ての前提のもとに架橋を企てる試みである。イエスは、自ら語る譬えは憐まれていることの自覚のなかで聞き理解する者と聞いてもこの憐みを悟らない者を判別する機能を持つとする。同時に譬えは叱責や警告をも発しまた含意しており悔い改めに導く機能を有している。

 福音書はこう報告する。「イエスは弟子たちに言った。「君たちには神の国の奥義が授けられているが、外側のかの者たちにはあらゆるものごとは譬え話のなかで明らかになる」(Mak.4:10)。彼は平行箇所でこう語る、「君たちに天の国の奥義を知ることが授けられているが、かの者たちには授けられていない。というのも、誰であれ(hostis)持っている者は、その者には与えられるであろうそしていや増し与えられるが、誰であれ持っていない者には、持っているものをもその者から取り去られるであろうからである。このことの故に、私は彼らに譬えにおいて語る、というのも、彼らは「見るけれども見ず、また聞くけれども聞かずそして理解しない」からである」」(Mat.13:11-13)。

 ここで「奥義」とはイエスがメシアであること、そして復活の勝利により彼の言行の一切が明らかになったときに回顧的に語られている(1)自己完結的な福音への「自己言及」のことが含意されていよう。なお神を愛しそこに心のある者は天の国に関するものごとの知識や恩恵がいや増し加えられるであろう。他方、この世に価値を置く者は「たとえ全世界を獲得しても」天国に関連するものごとは持っているものまで取り去られていくことであろう(Mat.16:26,cf.21:43)。

 福音が究極規準となり次の(4)一般的な倫理的原則が語られ秩序づけられる。「君の宝のある所、そこに君の心もある」(Mat.6:21)。福音を宝としない者はそれを獲得することはないであろう。ひとが価値を置くもの、そのものが規準となりものごとを量り、計測しまた審判しつつ量られ、計測され、審判されることになろう。「君たちは裁くな、それは君たちが裁かれないためである。君たちが量るその量りにおいて量られるであろう、君たちが計測するその計測器において君たちが計測されるであろう」(Mat.7:1-2)。これらは一般的な倫理基準であるが、これらが福音の自己言及に秩序づけられるとき、宝、量り、計測器はキリストとなる。そのとき、その価値を置くキリストによりものごとを量り、計測することになる。

 ただし裁くことはキリスト自身なさなかったことであり、キリストを自ら裁くときの規準とすることはできない。彼は業の律法を乗り越え信の律法を打ち立てたひとであり、律法の冠である愛は「愛を媒介にして働く信」(Gal.5:6)に転換されているからである。キリストが量りや計測器であるとき、たとえば「豚に真珠を与えるな」(7:6)はむしろ「豚には干し草を与えよ」となり、豚にとっての最善を識別することに向けられる。パウロは言う、「自ら識別するそのことがらにおいて、自らを裁かない者は祝福されている」(Rom.14:22)。ひとは善と悪、各人の実力などをその都度最善の行為を遂行すべく識別せざるを得ない。しかし、識別はキリストが規準である限り当事者の最善を願うことに基づいており、それは審判することではない。裁く者はモーセの業の律法の祝福と呪いのもとに、裁く者と裁かれる者たちのあいだで「同じことを行っている」つまり律法の枠のなかで生きている(Rom.2:3)。信の律法の啓示により人々は業の律法からの解放に導かれている。

 イエスは自らの復活のあと、エマオの途上において復活の主とは気づかなかった二人の弟子と共に歩きながら、真の預言者たちについて言う。「「ああ、預言者たちが語ったすべてのことを信じることに至らない、何という、愚かでその心鈍い者たち。キリスト[メシア]はこれらの苦しみを忍んでそして栄光に至るはずではなかったのか」。そして、イエスはモーセとすべての預言者から始めて聖書全体において(en pasais tais graphais)、ご自分について書かれていることを説明した」(Luk.24:25-27)。この自己言及は復活の勝利を挙げたからこそ語りうるものであった。そのことは、彼が信の従順の生の途上において天と地の媒介者である預言者と律法について三人称で語っていたものごとについて、イエス自ら言葉と行いにおいて偽りなく実現した後には、自らを指示している或いは自らとの関連において理解されるものとなったことを明らかにしている。

 天の父のみ旨を明らかにし語る者は実は自らについて語っている一種の自己言及であったことになるが、このような事態は先ず言葉と行いにおいて偽りのない者においてのみ語りうる言葉であった。「私についてモーセ律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は必ずすべて実現する」(Luk.24:44)という甦ったのちのイエスの発言は神の子に相応しい言葉であるが、何世紀をもかけて編集された書物が人類の歴史全体を見渡し全体として一人のひとの子にして神の子について記している。言ってみれば、人類の歴史の帰趨はイエス自身への信にかかっていると報告されている。この書物は二千年の歴史の審判を経ているが、おそらく人類史上現在にも後にも他にこのような言語使用を見出すことはできないであろう。

 なお福音書記者やパウロは宣教するイエスの言葉と働きを報告することを通じて宣教している。この宣教は間接的であり、種々の事実誤認の可能性は残る。しかし、神は人間の弱い言葉を介して伝達されることを許容している、つまり神が許容し認可しなければこのような形でさえ纏められることのなかったであろう書物が「聖書」であり、この意味においてそれは「神の言葉」である。イエスその人においては自らの使命の認識と遂行のあいだには乖離はないであろう。誰かがたとえそこに乖離がなくとも自己認識つまり神の子である者として聖書の預言通りの受難と復活を遂げるという自己認識に誤りがある、自己欺瞞であると主張するなら、それは彼の諸々の働きと復活によって反駁される。復活は神の専決行為だからであり、イエスに罪がなかったことの証だからである。

 甦ったキリストは聖書の預言を自己言及のもとにまとめる。「そして彼らに言った、「キリストは苦しみを受けそして死者たちのなかから三日目に復活する、そして[キリスト]自身の名においてすべての異邦人に罪の赦しへの悔い改めが、エルサレムから始めて、宣教される」と書いてある。君たちはその証人である」(Luk.24:44-48,cf.Act.17:2)。復活については数百人の証人が挙げられている(1Cor.15:6)。一切を創造し統べ治める神から派遣され永遠の生命を与える神の愛の体現者であるイエスの言動に関わる者は、宣教する者と宣教される者が同一人である彼の言葉を真理であると信じ神の子キリストであると受け入れるか、それとも拒否するかの態度決定が常に迫られている。これが彼の言葉の根源的な層である。神の前の言語網は自己完結的であり、その構成員は神に嘉みされた者たちである。

 パウロはこの福音の包括性をこう語る。「もし神がわれらの味方なら、誰がわれらの敵であるか。そもそもご自身の子を惜しまず、われらすべてのために彼を引き渡したその方が、いかに彼と共にあらゆるものをわれらに賜わらないということがあろうか。誰が神に選ばれた者たちを告発するのか。神が義とする方である。誰が罪に定めるのか。キリストは死んだ、いやむしろ甦り、神の右にある方であり、またわれらのために執り成したまう。誰がキリストの愛からわれらを引き離すであろうか。艱難か、災害か、迫害か、飢餓か、裸か、危険か、それとも剣か。まさにこう書いてある、「あなたの故にわれらは終日死に渡されています、われらは屠られる羊として認定されました」。しかし、われらはこれらすべてにおいてわれらを愛する方を介して勝ち得て余りある。というのも、死も生命も天使も支配者も現在あるものも来るべきものも諸力も、高きものも深きものも、他のどんな被造物も、われらの主キリスト・イエスにおける神の愛からわれらを引き離しうるものは何もないと私は確信するからである」(Rom.8:31-38)。

 パウロは御子を介した神の愛故に「われら」のことがらとして死や艱難いかなる苦境に対しても勝ち得て余りあることを確信している。もし偽りの預言者が現れ自らをそう主張したとして、その言動を疑い偽りと判断しそれを信ぜず無視する者は裏切ったことにはならない。そこに愛はないからである。イエスは自ら神の子であると信じ、父のみ旨に従いその言動に偽りがなく各人の罪の赦しのために生涯を捧げた。このパウロの確信のもとでは、この神の愛に対するひとの態度はこれを信じるのかそれとも神の愛を裏切るのかいずれかであって、信に関して態度を保留する中立的な立場は想定されていない。なぜかと言えば、父は自らの専決行為として御子と自らの信義そして愛の証に彼を甦らせたからであり、この大きな物語の外にいる、逃れうる場所を持つ者は誰もいないからである。換言すれば、各人はこの物語の登場人物であり、この物語は信の根源性のもとに語られ展開されており、受け入れない者は不信な者として裏切るそのようなものだからである。その確信の正しさは自らのあらゆる否定的な経験においても勝ち得て余りあるそのような喜びにより証明される。

 それ故にこそ福音とはあらゆる者に宣教されねばならないそのようなものである。「多くの偽預言者があらわれ、多くの者たちを惑わすであろう。不法がはびこる故に、多くの者たちの愛が冷やされるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶその者は救われるであろう。そして御国のこの福音はすべての居住地においてあらゆる異邦人に向けて証言(marturion)として宣べ伝えられるであろう、そして終わりが来る」(Mat.24:12-14)。イエスの福音の言葉はこの根源的な(1)自己言及の層を持ち、人間中心的に人間とその魂を普遍的に考察する(4)倫理学はこの層を持つことはできない。(1)自己言及の世界においてはイエスご自身が神の国を持ち運んでおり、その正しさを確認するためには単に言葉の上での理解のみではなく、信によってのみ神の子イエスと正しい交わりを持つそのような層である。自己言及が成立している層は父と子の贖いの協働行為によって開かれている自己完結的な神の前の層である。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —77箇条の提題要約(その1)

夏の連続講義:21世紀の宗教改革の主張とその人文学的基礎 —77箇条の提題要約―

                                                                                           千葉 惠

 

はじめに カトリックとプロテスタント和解の鍵発見

 なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがら即ち神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。

 ここでは神の義と信じる者の義認をめぐる神ご自身の「知恵と認識」(11:33)がパウロにより神の前のことがらとして報告されており、従来のように人の前のことがら例えば人が持つどの程度の信仰が神に義と看做されるか等の人の心的態勢は問題とされてはいない。

 「ローマ書」のこの箇所をめぐる一つの結論はこの分離のなさの啓示の故に、神の意志即ち神が義でありそれにふさわしい人間の正しい在り方を啓示し知らしめたモーセの「業の律法」(3:27)とは別に「しかし今や、[業の]律法とは分離されて」(3:21)、今や神の義とは「分離がない」仕方で啓示されている「信の律法」(3:27)のほうが神にとっても人にとってもより根源的な正義であるということである。かくして、律法の「冠」(13:9)である神への愛と隣人への愛は信の律法のもとに変換され「愛を介して働いている信」が「力ある」ものとなる(Gal.5:6,Rom.5:8)。愛は「キリスト・イエスの憐みのうちにある」「義の果実」である(Phil.1:8-11)。

 そこでは信を根底とする信の律法のもとに「裁くな」が直截に命じられることになる(Mat.7:1,Rom.2:1)。ひとが自分たちのあいだで審判しあうことは「業の律法」の枠のなかで生きるという意味において「同じことをしている」(Rom.2:1)ことになり、「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(8:2)また「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)はずの解放と贖いから「再び奴隷の軛」に繋がれ「罪の奴隷」になることだからである(Gal.5:1,Rom.6:20)。或いは例えば、自ら信仰を持つことは神を利用するエゴイズムではないかという懐疑は「貪るな」というモーセの十戒の枠のなかで信仰を捉えることであり、やはり業の律法に取り込まれているからこその懐疑である(Rom.7:7)。「信じない者ではなく信じる者となりなさい」(John.20:27)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と命じられるとき、神が父と子の協働行為のもとに為し遂げた「キリストの愛」(8:35)、「御子の福音」(1:9)の恩恵に眼差しをむけさせ、そこにこそ新たな時代を作る力があると告げられている。この福音のダイナミズムこそ21世紀の宗教改革を推進する力である。

 この発見はカトリックとプロテスタント和解の鍵を見出したことに他ならないと思われる。トマス・アクィナスの神学体系に基礎を置くカトリック教会は神の前と人の前を分け、アリストテレス倫理学の相対的自律性のもとに聖人に至るまでの人格的有徳性の蓄積を認め、神と人間の関わりを説明する総合的かつ包括的な思想体系の構築に勤めた。確かに、責任ある自由のもとにある人間を前提にする限り、人間的には有徳な者や悪徳な者がいるということを到底否定できず、地に足の着いた天的なものへの架橋は不可欠なことであり、それ自身恩恵のもとにあると理解することは神が宇宙と人間の創造者にして統帥者である限りにおいて道理あることである。

 他方、プロテスタントは神の前と人の前を媒介するイエス・キリストの信の根源性に集中し、ルターは「信じることは神の働きである」即ち信じせしめられることであるとし、神の前と人の前が常にキリストのまた聖霊の媒介行為により繋がれていると主張する。またカルヴァンは神の恩恵の働きである義認と人の人格的な成長である聖化を分離することを「あたかもキリストを引き裂くことだ(quasi Christum discerpere)」と主張した。

 プロテスタントはその都度信じることは信じせしめられることであると主張し神の前と人の前を分けないことこそ神の福音であると主張する。彼らは純福音が散逸している当時の歴史の趨勢の中でキリストの福音に集中を余儀なくされたのであった。他の仕方での神へのアクセスは「神の恩恵を無視する」ことになる、そこでは「キリストは空しく死んだ」ことになる(Gal.2:21)。確かに、信じるとは今・ここでキリストを介して神に愛されていることを信じることである限りにおいて、プロテスタントは今・ここで執り成しの働きにおいてあるイエス・キリストと聖霊の媒介にその都度集中することは正しいことであると思われる。生きるとは神の前に生きることに他ならないからである。

  カトリックとプロテスタント双方の和解は普遍的な理論(ロゴス)上の分節と個別的な今・ここの働き(エルゴン)上の不分離がイエスやパウロの「言葉と働き」に見いだされる限り、双方は和解しうると思われる。双方ともパウロの神学の中心的教理を展開する当該箇所(3:21-26)をVulgata翻訳以降の一様の誤訳の故に適切に神の前の事態、即ち神ご自身による「神の知恵と認識」(Rom.11:33)を析出することに失敗し、それが単に所謂信仰義認論のみならず神の前と人の前の分節と総合をめぐる双方の理解の齟齬を大きなものにしたと思われる。当該箇所が信義不分離をめぐる「神の知恵と認識」のパウロによる一般的な報告であったことが解明されるとき、これまでの双方の人間観の理解の異なりや齟齬を神による人間「認識」との関係において明確に提示できることになろう。

 一方、聖書においてはロゴスとエルゴンを媒介するものは、その人が語りうる究極の言葉とその働きのあいだに乖離がなかったナザレのイエスの信の従順である。これが神の前で神によりイエス・キリストにおける信義不分離のエルゴンとして嘉みされ、信に基づく義の信じる者すべてへの神の前における普遍的なロゴスとして適用されるに至っている。アリストテレスによれば哲学においては秩序ある働きを観察することができる限り、ロゴスは何等かエルゴンに内在しており、或いは個々のエルゴンから秩序ある普遍的なロゴスを析出することができており、そのロゴスとエルゴン双方の存在様式「完成(entelecheia)」が双方を媒介する。哲学においては双方の媒介は成功した視点から語られている。

 21世紀の宗教改革においては人間本性の解明をめぐる人類の知的そして人格的な歴史の蓄積を踏まえ、神を愛する者と真理を真理それ自身のために愛する者双方が同意しあい協調しあう者である限りにおいて、力ある仕方で遂行されるであろう。キリストへの集中は宇宙に秩序をもたらすロゴスの真理への探究と共鳴和合するものであり、キリストによる救いの探求と秩序ある存在の様式である完成への探求とはロゴスの真理への信によりまたエルゴンの証の蓄積により相補的、補完的なものとなり説得力を増すであろう。パウロは「ガラテア書」において言う、「私は神によって生きるために、[「信の」]律法を介して[「業の」]律法に死んだ。私はキリストとともに十字架に磔られてしまっている。しかし、もはや私は生きてはいない、キリストが私のうちに生きている」(Gal.2:19-20)。パウロにおいてはキリストが自らの内に生きており、自らのロゴスとエルゴンの媒介者であると主張する。その媒介者キリストが存在論的には完成という存在様式においてあるロゴスである限りにおいて、福音の真理はすべてのひとに妥当する真理となるであろう。

 パウロが「福音」とは「[君たちと]共に与る」べき何ものかであると語る時、福音は父と子の協働行為により自己完結的なものとして提示されている(1Cor.9:23,cf.1:11)。ひとはただそれに与ることが求められている。神の前ではその信義不分離の啓示のもと予め憐みの器と選ばれたその信仰が嘉みされるすべての者が義と看做されている。「神の知恵と認識」を伝える福音の言葉とそれによる相対的自律性のもとにある人間の知的、人格的営みの秩序づけ、それへの収斂にむけて、その解明の出発としてこれまでの人文学の知見を生かし、文学や歴史学、倫理学、哲学そして神学等の理性の導きにより人の前の人間認識と神の前の人間認識の関係を開示すべくナザレのイエスをめぐりその媒介性の探求を遂行したい。

 21世紀の宗教改革は、宗教改革の名に値するためには、詩人が「地の果てまで戦いを絶ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われる。力を捨てよ、知れ私は神」(Ps.46:10-11)と力強く歌うように、今日まで続く理論上の争いをやめさせることをまずその目標とする。ただそれだけではなく、ナザレのイエスはガリラヤの野辺を歩きながら「時は満ち、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信ぜよ」(Mac.1:15)と語り、「神の子の信によって」(Gal.2:20)死に至るまで信の従順を貫き、人間は誰であれ「天の父の子となる」(Mat.5:43)ことがその本来性であると宣教した。この運動は言葉と働きにおいて神の国を自ら持ち運んだイエスの御跡に従い、福音がユダヤ人のみならず異邦人にも人間の本来性を伝え生命を持ち運ぶものとなるその一助となることを使命とするものである。なぜこの21世紀にあらためて宗教改革か?この77箇条の提題の提案者がだいそれたアドヴァルーンを自ら挙げたことに何か道理はあるのか?唯一その理由を挙げるとすれば、パウロ「ローマ書」の神学主張の中心箇所が二世紀の古ラテン語訳の「編集」である四世紀のヒエロニムスのVulgata版以来、「ローマ書」3章21―26節が誤訳されてきたことに求められる。とりわけ、「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者[と神が看做す]すべての者たちに明らかにされてしまっている」(3:21)に続くその理由文(3:22)は、神の前のことがら即ち神ご自身の理解として、「なぜなら[神の義とイエス・キリストの信のあいだに]分離がないからである」と訳されるべきであったが、例外なしに人の前のことがらとして人が持つ心的状態としての信仰をめぐって「なぜなら[信じる者すべてのあいだに]区別がないからである」と誤訳されてしまったことに求められる。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー

第39回内村鑑三研究セミナー       2025.6.14. 立教大学12号館地下1階会議室

内村鑑三晩年の「哲学熱」と真理の楕円説―純福音の析出をめぐってー

                                     千葉惠

 

要旨

 内村は生涯三種類の信仰理解を提示し、「絶筆」(355号)「信仰に手段方法は何もない」において「羅馬書」連続講義時の信仰の義認「条件」説を乗り越えた。3:22は「(神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に)分離がない」と神の自己理解を訳出すべき処を四世紀Vulgata版以来「(信徒の間に)区別がない」と人が持つ心的態勢の次元において誤訳されたために正鵠をえず、福音即十字架の過去完結「原理」の神の前と純信頼「事実」の人の前に分け「ロゴス(理)とエルゴン(はたらき)」(15:18)の分節と総合に失敗した。絶筆では表現「神が人を求む」において、自己完結的な神の前の「神の知恵(理)と認識」(11:33)を理解し、「神が備え給ひし救ひの途」とは「イエス・キリスト」に帰属した「信」(3:22)であり、この「神の恩恵に応ずる人の信仰」は神に嘉され理解される限りのご自身の信義に相応しい人の信仰である。恩恵による救いの途とその途に「唯信ず」「他(ほか)に途がない」「自己を信(まか)す事」は神の前の同一の途の上りと下りである。神が御子の信の従順に罪を赦す十全な力能を見「イエスの信に基づく者を義とする」(3:26)恩恵のもとに信仰とその義認の不分離な二項一組を三人称で理論上表現している。この神の信義と人の信が楕円の二焦点を形成する。第三の信仰理解は「人が神を求める」「我ら」の「肉の弱さ」(6:19)の譲歩のもとでの聖霊による今・ここの執り成しの不分節的な働き(エルゴン)でありパウロ(5:1-9:5)にも見られる。

 

序 「全聖書を解し得る」鍵

 内村は1914年に「聖書之鍵」と題して帰一的な聖書解釈の指針を表明している。[主張1]:「旧約は新約を似て解すべし、新約は羅馬書を似て解すべし、羅馬書は其の第三章二一節より三一節までを似て解すべし、神の黙示に由り羅馬書第三章二一節より三一節を解し得し者は全聖書を解し得るの貴き鍵を神より授けられし者なりと信ず」(『聖書の研究』「聖書之鍵」172号1914.11,『内村鑑三全集』(岩波書店)21巻:p.113。本稿では21-26節を「鍵箇所」と呼ぶ)。

 この発言が残り十数年の彼の生涯を方向づけ、内村は翌年「自訳」を「信仰の強弱―羅馬書三章二一節至二八節」(21:203,175号,1915.2)にて、1921年1月からの59講60回の羅馬書講義(以下「「講義」」)にて「意訳」を提供し鍵箇所解明に努めている。最初に内村の聖書研究と信仰の特徴を彼の自然、人間理解のなかに概略的に位置づけ、その統一理論を哲学に求めたことを確認する。続いて何がこの鍵宣言をさせるにいたったかその背景と内実を探るべく聖研172号周辺の三つの文章また「神の忿怒と贖罪」(1916.4)そして数年後の「講義」を取り上げ、鍵箇所の贖罪をめぐる信仰理解の揺らぎを辿る。その上で人の前の信仰は神の前の義認の「条件」であるという理解が絶筆「三種の宗教」(1930.2)において否定されるに至るその過程を辿る。彼の信仰理解の特徴は、神と人の二元論的な哲学的枠組みのなかで、鍵箇所から引き出される神の前と人の前の分節と総合を企てるその終生の取り組みに応じて、その形を取ることを確認することになろう。

 

1内村の聖書研究の哲学的枠組み概観

 J. Howesによれば内村は聖書研究を「天職」と定めてから37年間で「ほとんど聖書全体」の注解(「ネヘミヤ、雅歌、哀歌と五小預言者を除く」)を公にし「現在でも日本語における聖書の一人による注解として最大である」(J. Howes Japan’s Modern Prophet,p283)。内村は、他方、青年時代から「僕は天然と歴史と聖書とが人類に与えられた神の啓示の三脚であることを知って喜ぶ」とあるように、真理を証する「三つの鼎」の統一理論の形成に関心を懐いた(宮部金吾宛1886.10.6, 36:246,cf.1885.12,17:222,聖書見返しthree witnesses to the Truth1885.4.18)。手紙では三脚の秩序づけはキリストによるとされ、彼が天然と人間にロゴス(理)や聖霊の働きとして内在し「他の二つの秘密をも開く鍵」であるという。後にそれはキリスト論的宇宙観となり、「神は宇宙を以てキリストを生み給ふた」のであり、宇宙はこの「最も完全なる人」の故に「神聖」であるとされる(1910.1,17:84)。彼は「余は聖書なくして生存する事が出来ないやうに、天然なくして心霊の平衡を取って行く事ができない」(1922.3.20)と顧みるが、「福音の真理」(Gal.2:5)への健全な信仰に向けて、「神の奥義」「天然の真実」そして「人類の実験」の三つの機能の相互的な補完が生涯追究されている(11:201,1903.4)。

 内村はこの鼎の統一理論を哲学的に追求したように思われる。彼はカントを愛した。「宇宙的感化を世に及ぼせし彼は・・言う、「我が上に星天の輝くあり、我が衷(うち)に道義の宿るあり」と、宇宙と道義・・彼の心は全宇宙を懐いた」(190号,1916.5)。これは天上の星々の運行にそして人の心奥の良心の発動に秩序ある理(ロゴス)が働いていることへの信の表明に他ならず、その基本的態度は「信仰は之を個人の狭き経験の上に建てずして、宇宙人類の広い深い土台の上に築くべき」というものである(「信仰の土台」30:333,1927.4)。

 「所謂「見神の実験」を有たない」内村は自らの信仰が「凡人の」それであるとしてその均衡性を指摘する、「カントの所謂「天の星と心の道義と」に由ってキリストを知るを得たのである。そして凡人的であるが故に安全である」(「私の基督教」32:106,1929.5,日記1928.12.6)。彼は留学時代ヒュームによる懐疑の洗礼とその哲学的克服とともに回心を経験している。彼は後年「自分の経験においてヒュームの哲学によって自分の信仰を一度破壊され」たが、「基督信者の実験を哲学的に攻究した」カント学者ユリウス・ミューラーの『罪に関する基督教の教義』が「自分の信仰の基礎を築いた」と述べる(日記1928.7.24,cf. How I became a Christian? Ch.9,3:134)。彼が「キリストを知るを得た」と述懐するカントとの出会いはこの著述を介してであると思われる。

 内村は懐疑をめぐって、ヒュームにおける信念の度合いは証拠の多寡に比例するという認知的な次元で捉えることから、魂の根底において神を見失うことによる「心霊の苦悶」であると人格的、霊的な次元で捉えるに至る。「懐疑は霊性の惰弱(よわき)より来るものであって、智能の足らざるより来るものではない」(「懐疑」12: 196,1904)。最後の病床時「今度と云ふ今度「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」を徹底的に実験した」との告白に見られるように、彼の生涯は放浪時の作品『求安録』における結語「光ほしさに泣く赤子」の見失った父を求める叫びを臨終に至るまで時に経験したと思われる(日記1930.2.6,2:249)。他方、彼は福島県勿来で山桜の花吹雪を賞美しながら義家の古歌に事寄せて、パストラルな労をとることもあった。「今日の余に此歌はない・・我が花は人である、然り彼の信仰である、而(しか)して懐疑(うたがひ)の風吹くなと我は常に心に祈るのである、然るに事実は如何にと問うに、嗚呼、千人は右に斃れ、万人は左に仆(たおる)る。「吹く風を勿来(なこそ)の関と祈るかな・・」」(34:35 1922.4.6)。

 この実人生の緊張のなかで彼は眼前にまた歴史に展開される天然事象、歴史事実を虚心坦懐に受け止め探究した。内村は晩年油壷の臨海試験所を訪れ半世紀前の自らの研究と同じ「ウニとヒトデと舟虫」の研究継続を確認し、「人間は百年を費やしてウニ一つを知り尽くすことができないのである。神と天然には到底敵わない」(日記1927.7.4)と回想する。彼は科学の真理に対し、福音の真理に対すると同様に、ただ幼子の信のもとにジェネラリストとして全人格的に探求を続ける。

 『羅馬書の研究』(1924)以降「哲学熱」はとりわけ盛んであり「神を発見する」ことをめざす哲学が「人間の知識」でありつつ「是れまた神の賜物」であるという認識のもとに、鍵箇所の贖罪論理解をめぐって神の前の無償の恩恵と人の前の自由で責任ある信仰がいかにかかわるかを「絶筆」にいたるまで追求した (日記1928. 6.9,1930.2.355号。1927-28年の日記に「哲学」への言及は36日ある。また「病気の一年」の1929年の日記に「家に留まりて哲学的生涯を送る。悪くない・・小児の心になりて宇宙的真理を探る」とある(1929.11.25,同7.17))。

 彼の哲学は人間の知識を「神の賜物」即ち究極的には神の前の事柄としながらも、二元論を確保するものであった。[主張2]:「もし私の信ずる基督教に哲学的基礎があるとすればそれは二元論であって一元論ではない。聖書はその発端において言う、「元始に神天地を造り給へり」と。これは確かに二元的宇宙観である。神は霊であって天地は物である・・霊魂と肉体と、精神と物質と、本質を異にする両性の実在することを疑はない」(「私の基督教」1929.5.32:103)。これはシイリーにより教えられた仰瞻(ぎょうせん)の信仰を一旦括弧にいれ人間理性によるその理解の枠組みは、「真理の為に真理を愛する哲学」の名において相対的に独立したものとして遂行されるという主張である(「福音と哲学」1928.7,31:198)。

 この二元論は同年の「楕円形の話」において、二つの焦点の働きにより秩序ある楕円軌道を描く真理の楕円説として具体化されている(1929.10.32:207)。楕円説の構想において「宗教は神と人である」というその二焦点が言及されるが、その働きが秩序ある楕円軌道をもたらしうるかの解明は絶筆「三種の宗教」の議論を補うことによりその輪郭が描けると思われる。筆者は鍵箇所のVulgata版以来の誤訳が聖書理解に甚大な影響を与え西欧の宗派や学派の分裂の元凶であると理解するが、内村の信仰理解の揺らぎ、変遷もそこに起因すると解する(K.Chiba,Uchimura Kanzo on Justification by faith in His Study of Romans: A Semantic Analysis of Romans 3:19-31, Living for Jesus and Japan, ed.H.Shibuya & S.Chiba (Eerdmans 2013))。

 11世紀にアンセルムスは「理性のみ」にて聖書を一切引用せずに「信仰」や「霊」を語ることなく、神の子にして人の子のみが罪を贖いうることを神学的に論証した(Cur Deus Homo)。そこで彼は父と子の憐みの協働説とでも呼ぶべき贖罪論を展開するが、人間中心的な語りは「神が・・譲歩する(concedit)」ことによるとする点に至るまで、期せずして筆者の「ローマ書」の意味論的分析と完全に合致した。それは彼が「聖書の権威」に頼らず誤訳から解放されていたことによると思われる(II18)。楕円説は哲学的にはパウロの方法論である「ロゴスとエルゴン(理・言葉とその今・ここの働き)」(Rom.15:18)の相補性を萌芽的にではあるが表現できており、内村が「絶筆」において到達したパウロの鍵箇所の信仰理解が適切に楕円化されることを示したい。

以下彼の鍵宣言以降の論述に拙訳「ローマ書」(『信の哲学』下巻附録(北大出版会2018))の視点から問を立てることによって、鍵箇所のVulgata版以来の誤訳により純福音から逸脱した内村の窮境と「絶筆」において正鵠を得て解決に到達していたことを明らかにしたい。

 拙訳は以下である。「21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離がない]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、2526その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」。この箇所はパウロによるキリストの出来事を介したあらゆる今(現在)に妥当する神の啓示行為における「神の知恵と認識」(11:33)の普遍的な報告である。「差し出した」におけるアオリスト時制は完結した全体的な出来事を表現する話者の視点(perfective aspect)により提示され、「明らかにされてしまっている」における現在完了時制はその一回的全体的な出来事に基づき現在にまで継続している持続的な視点(imperfective aspect)により提示されている。「信じる者に救いをもたらす神の力能」である福音は、信じることは今・ここで神に愛されていることを信じることである限り、現在のことがらである(Rom.1:16)。

 

2贖罪論の難問

 [問1]、何故鍵箇所[主張1]は全聖書を解く鍵なのか?鍵宣言の背後にあった認識は何か?

 彼はこの指針により神の前と人の前の関係を根源的に開示する箇所であると理解していた。鍵箇所は内村によればキリストの贖いの無償の恩恵の出来事を介した神への人の信仰によるアクセス(途)を述べており、内村はそこに暗黙の前提としてルターと共に信仰の正しさを証する聖霊の執成しを読み込んでいる。これら三者の関わりが根源的に開示される限り「全聖書を解く鍵」となるという主張は理解できる。パウロによる「すべての被造物」が「滅びへの隷属」からの解放を求め「生みの苦しみ」に呻いているとの認識に、内村は「講義」中の日記に言う、「宇宙と霊魂と聖霊とが呻きつつ、基督者の信仰を証明するといふのである、之よりも大なる問題のありやう筈もない」(Rom.8:18-22, 26:186,日記1922.2.19)。最大の問題を解決するものがあれば、それは「鍵」と呼ばれるにふさわしい 。

 「贖罪と復活」(1914.11,「鍵」と同172号)において、内村はキリストの十字架と復活により既に「神の側」即ち神の行為と認識においては人類すべての義認は確立されたと主張している。[主張3a]:「神の側に在りては人類の罪は既に全く除かれ、人類は既に栄光を被(き)せられたのである、今は唯人類が神の恩恵の配興に応ずるや否や、その問題が残っているまでである、而して此の問題の解決たるや至って容易である」。同様の主張は翌年の「基督教とは何か」に見られる。[主張3b]:「キリスト教はそう[未来の道徳的完成]ではなくて過去に完成されたものを貰うことである。・・それ[シュライエルマッヘルの主張]は最もよく私の言はんとする考え即ちキリスト教は既に済んだ事であるという事を表わしている」(1915.7,21:512)。

 神の前の事柄として福音は既に歴史のなかに明確に打ち立てられ一切が解決されたという。「講義」では「「神の前に」である、「人の前に」ではない、人の前には如何やうに見えてもパウロの問題とする処ではない」(26:157)と自覚的に二つの視点が判別される。これを[主張3]:「神の前での福音の過去完結性」と呼ぶ。

 このキリストにおける過去完結性の伝統的な主張は少なくとも鍵箇所前半21-4節の一解釈により導かれるものであろう。鍵箇所の「自訳」はこうである。「今律法を離れて神の義は顕れて律法と預言者はその証明(あかし)をなせり、即ち凡て信ずる者に及ぶイエスキリストを信ずるに由る神の義是なり、之に区別あるなし、そは人は皆な罪を犯したれば神の榮に与るに足らず、唯イエスキリストの贖いに由りて、神の恩恵に因(よ)り、功績(いさほし)なくして義とせらるれば也」(「意訳」では「賜物として其の恩恵に由り、キリストイエスの贖いに依りて」(3:23))。この翻訳による21-4節が恩恵の賜物、無償性としての内村の純福音を含意するのであろう。[主張4a(3の帰結)]:「純福音は純恩恵である、律法の痕跡だも混(まじへ)ざる神の恩恵の宣言である」(「純福音」176号1915.3,21:227)。そこでは必然的に受け取る側にはいかなる「功績」も要求されないはずである。

 他方、「講義」では[主張4b]:「他の何者をも雑(まじ)へない処の全く純なる信頼―これが徹底した信仰である、功を要しない功を条件としないただの無邪気なる信頼である」(167)とあり、[主張3] 過去完結性の帰結として導かれる対応する人の側の信仰の特徴として「純なる信頼」が挙げられる。功績ではない表現として「純信頼」が求められており、彼はそれにより律法の業との対比を強調する。このように[主張4]:「純福音と純信頼」が導かれるが、これはあくまでも人間の「徹底した」或いは「無邪気な」心的態勢を前提にした上での信仰が問われる地平である。

 「贖罪と復活」では人の前の応答は「容易」であるとし[主張4]:「純福音と純信頼」は易行道と同定される。①「何人であれ」、②「信仰を以て」、③「神の此配興に応じて」、④「今、即時に、神がイエスを以て人類に下し給いしすべての福祉を己が有となすことができる」。即ち⑤「人類は今は既に救はるべき状態に於いて在る」。これら五つの要素が枚挙される。

 「我が平和と歓喜」(21.111、鍵と同172号)においては、同じ文脈において人の心的態勢の記述は④「できる」⑤「べき状態」とは異なり⑥「我に人のすべて思ふところに過ぐる平和と歓喜とは有るなり」と現在形において救いの心的態勢の存在が表明されている。かくして、一方で「われ」は⑥今・ここの喜びにおいて有るが、他方でわれは福音を④「今、即時に」喜ぶことが「できる」として位置づけられることになり[主張4]は変動ある心的態勢の次元で議論されている。

 「講義」では[主張3]「過去完結性」と[主張4]「純福音純信頼」の関係は「原理」と「事実」により判別される。[主張3c]:「併し何故に「人類全体」とは云はずして只「イエスを信ずる者」(3:26)と限ったのか、もちろん原理としては万人が十字架に於いて義とせられた、しかし原理は個々の場合に適用せられて初めて其値を生ずる、即ちキリストを信ずる個々の人が事実上義とせらるるのである」(26:191)。この「原理」と「事実」の判別による応答は人間的に見れば⑥「救はれている状態」と⑤「救はれるべき状態」に対応しよう。しかし神の前で救われているなら、人間は神の判断に逆らうことはできないであろうから、原理上は事実上を含意するに相違なく、人の前は肉の弱さを抱えた認知的、人格的に不十全な人間への譲歩された視点、領域にすぎない、少なくともそう反論されるであろう(cf.Rom.8:39,9:19)。

 パウロにおいてイエス同様、「信仰」は変動ある人の前のつまり人間が判断する限りでの心的態勢として「成長」や「進歩」、「弱い」「強い」が帰属されるものとして念頭に置かれる場合があるが、内村もその地平で或いは「講義」まではその地平のみで信仰を捉えている、或いはそれ以外の表現を持たなかった(Phil.1:25, 2Cor.10:15,Rom.14:1,15:1)。神の端的な無償の恩恵としての福音は過去の出来事に追いやられ、人の側の信仰はその都度の今において持つ心的態勢として理解されており、二項一組を形成すべく過去完結性とそれに対応する人の信仰の間のギャップが常に問題になり、セットで見る限り「純福音」とは呼べない。

 

3「神の前」と「人の前」の分節と総合

 [問2]このような過去完結性のもとでは神の前と人の前の記述はいかなる分節と総合をもたらすか?啓示の言語網の「過去完結性」ならぬ「神の前の自己完結性」と自由な人間中心の言語網の「人の前の相対的自律性」の確保とその関連こそ追求されねばならないのではないか?神の前を逃れられる人は誰かいるのか、ちょうどパウロが「君が君自身の側[責任ある自由のもと]で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)とキリストの出来事を自らのそれであるとせよと命じるように?誰もいないが、誰かいるとしたら人間の責任ある自由を認めるために、パウロが「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)と自らの身体の限界が自己の限界であると考えがちな「肉の弱さ」を顧慮して、そのもとで「罪の奴隷」でも「義の奴隷」でもありうる相対的に自律した中立的な可能存在者を譲歩として認めることによってでしかないであろう。

 二元論のもと「神の前」を分節する形式的な組み合わせは三つあり、その一つ([神の前X:信仰条件説])は内村の「講義」における立場である。神の前の構成要素が[主張3]過去完結性だけであるとき、[主張4]変動する信仰の人間的認識のもとでの心的態勢としての信仰は神の前の外にあり、信じることはその受領の「条件」となる。そこではどれほどの信仰を持てば⑥⑦喜びのうちに生命が宿るのかが問われる。「受くべき唯一の資格なる信仰を抱かざる時に於いては、与へんとして待ち給う天父も遂に与うるに道がない」(26:96)。信仰は「汲器(くき)」の比喩で語られ、信仰が「神の義を受くる唯一の条件」とされる。「絶対の恩恵、何等人の功に依らず、来る者の汲(く)むに任する所の生命の泉なる「神の義」である、但し信仰てふ汲器を持ち来らざる者は此泉より生命の水を汲取るを得ない」(183)。「ピスティス(信・信仰)」をめぐる神の前と人の前の判別の不明瞭さ故に信仰が義認の「条件」とされる。

 もう一つの組み合わせの可能性([神の前Y:信義不分離説])は、筆者はパウロのものと解するが、「信じる者」を「神の前」に組み入れるものである。「神の義はイエス・キリストの信を介して信じる[と神が看做す]すべての者に明らかにされている。というのも分離はないからである」(3:22拙訳)。神の認識や意志が知らされる啓示の言語網においては、ナザレの「イエスの信」(3:26)の従順の貫徹が神に嘉みされ、神はイエスを自らの義の啓示の媒介者「イエス・キリスト」として立てている。「イエス・キリスト信[帰属の属格]」は人の子にして同時に神の子でもある媒介者に帰属した信であるが、神はその信と自らの義の間に「分離はない」と看做している。、神はイエスの信の従順が信徒の罪を赦す十全な力能を見て、分離なき信義はその啓示の差し向け相手であるその「信じる者すべて」に及び「イエスの信に基づく者を義とする」(3:26)。

 何故信徒が無償の恩恵の内側に組み込まれているかと言えば、神の前に生きていない者は誰もなく、また肉の弱さへの譲歩の必要のない啓示の差し向け相手においては、誰もが父と御子の信義の分離なさの故に、父は「子よ」と呼びかけ子は「はい父よ」と応答するその人格的信頼関係が見いだされるからである。そこでは人間の認知的不十全性のもとでの信仰の冒険性は問題にならない。子は信義分離なき神の義が自らにも及び義と看做されていることを知っている。神は御子の信の従順を嘉みし人類の罪を贖うに十全な力能があると看做しているからである。

 この啓示行為のパウロによる報告の工夫は聖霊の媒介の働きへの言及なしに神の専決行為として啓示の差し向け相手に対し三人称(「信じるすべての者」)で一般的な表現を与え、誰が神の前で義人であるかをめぐって個々人は特定されないことにある。神の福音の啓示行為は二千年前のナザレのイエスの信の働き(エルゴン)の生涯に基づいているため、信徒の義認はその後のあらゆる現在・今において遂行される恩恵として三人称により普遍的に表現される。これは義人とはどのような人か、神の義はいかに知らされているか等を普遍的に明らかにする。これを「ロゴス言語」と呼ぶ。尚過去完結性は「万人救済」を含意するが、それは終わりの日における一つの可能性ではあるが鍵箇所における福音の啓示においては知らされてはいない。

 他方、神の前の出来事は譲歩された人間中心的な言語網(Rom.5:1-9:5)に登場する一人称「われら」、二人称「君」の個々人にも聖霊の執り成しにより適用される故に、そこでは話者の今・ここでの働きの現場が問題とされている。パウロが「神の愛はわれらに賜った聖霊を介してわれらの心に注がれてしまっている[現在完了]」(5:5)と語るとき、もし発話の時点で聖霊の働きを介した神の愛が注がれていなかったら、偽となるそのような言語である。これを「エルゴン言語」と呼ぶ。パウロは双方の言語をそれぞれ「知恵の説得的議論」と「霊と力能の論証」呼ぶ(1Cor.2:4)。

 第三の可能性([神の前Z:聖霊媒介説])はパウロと内村により共有されていると理解する。これは内村が実質的には成功した人の[主張4]神に嘉みされる信仰を「純恩恵」に対応する「純信頼」と語るときに意図している立場である。肉の弱さを前提にしたうえで聖霊の呻きを伴う執り成しにより[主張3]「過去完結性」と成功した[主張4]:⑥「心に喜び充ち生命湧」く「喜びの心的態勢」が今・ここで媒介されている神の前と人の前が接続された「信仰上及び心理上の事実」である(「講義」175)。内村は「罪が赦されて義とせられし事、是は第一には聖霊みづから直接に我等の霊に囁き教へ給ふことである」と言う(26:500)。

 これは今・ここのエルゴン言語と言えるが、それは「神の愛が心に注がれるなら、それは聖霊を介してである」(ロゴス言語)と条件文で普遍命題として一般的に提示されうる。これは神の側から見れば嘉みされた純な信頼をも含め神の前の事柄であるとロゴス上語りうるものである。なお人の側から見れば強弱ある人の信仰の態勢のなかで実質的には成功した視点つまり神に嘉みされ今・ここにおける聖霊の執り成しのもとにある純な信頼がその都度エルゴン上表現されている。そのような記述の視点に即して神の前と人の前双方を構成するものである。

 鍵宣言から「講義」にいたる内村は第一[X]の神の前の外にある人の「条件」としての信仰と第三[Z]:「純信頼」⑥「喜びの心的態勢」の間を揺れていたと結論できる。ただ思考の方向としては[主張5]:神の前と人の前を分けず聖霊の媒介の働きを込みにして或いは期待しての理解を展開していることに見られる。

 「神の義」により内村はルター主義的な今・ここの受動的義を基本的に理解する。「人の義[律法による義]の立ちがたきを明示したる後の語である故、神より人に賜ふ義であると見るが正しい」(26:167)。内村は1:17のパウロの主題提示について「神の義は信仰に依って受け、信仰に依って保ち、信仰に依って完成するものなる事を意味した」と、義認の恩恵の注ぎを前提に受動的義を基軸に聖化から栄化に至る心的態勢の成長を理解する(95)(尚内村は一可能性としてAmbrosiaster説(ex fide Dei promittentis in fidem hominis credentis)に基づいたと思われる「神が人を信ずる事より人が神を信ずる事にまで」を挙げている(94)。拙訳「神の義は彼ご自身[イエス・キリスト]において[神の]信に基づき[嘉みされる人の]信に啓示されている」)。

 内村は神の前と人の前を分節せずに鍵箇所を読む。ルターは「信仰こそキリストを把握するが、・・キリストはその信仰そのもののうちに現存する」(WA.40.I228)と言い、カルヴァンも「[神の前の]義認と[人の前の]聖化を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」(Comm.Rom.ch.8:9)と言い、今・ここの信仰の働きにおいて常に聖霊の働きを受け取る。信仰は生命を受領する一つの行為である。この受動的義の理解は神の前と人の前を媒介者のゆえに分節しないことが正しいという主張である。

 しかし自訳では媒介は「イエスキリストを信ずるに由る神の義」とあり、人が持つ信仰が媒介者とされている。内村はその媒介における聖霊の注ぎの現場性の証として晩年「信仰告白の必要」で「信仰は生命である」と言い、既に『求安録』においてルターに倣い「信仰も亦神の賜物なり(エペソ2:8)、余は信じて救わるるのみならず、亦信ぜせしめられて救わるる者也」と言う(32:296,2:249)。これはプロテスタントの要諦ともいえるものである。ただし、パウロにおける神の前の組み合わせ[Y:信義不分離説]と[Z:聖霊媒介説]のロゴスとエルゴンの異なりから共存できる組み合わせの語り方を捉えていなかったと言える。

 「ローマ書」433節をそのもとに展開するパウロの方法論は「キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって為し遂げたこと」(15:18)だけを報告することにある(cf.11:32-3, 1Cor.2:16, 2:6-7)。確かに今・ここの働き上内村らは常に聖霊の媒介のあることを前提にすることにより神の前と人の前を分節しないよう腐心するが、霊が注がれていない状況としては例えば神の怒りにおける悪行への「引き渡し」が想定される(1:18-32)。パウロは神の啓示行為の報告とりわけ義認、神の怒りの知らしめと予定の議論においては聖霊への言及が一切なく父なる神の専決行為として報告され、また三人称を用い一般的に匿名で表現される神の前の構成員をも含め、ロゴス上肉の弱さのもとに譲歩される人の前とは分節される仕方で報告されている(1:17,1:18-32,3:21-26, 9:6-11:32)。これは真理を捉える普遍的な方法であり、イエスが「知恵はその働き(エルゴン)によって正しいとされる」と語るとき、アリストテレスと同様にロゴスとエルゴンの相補性を念頭においている (Mat.11:19 , cf.Luk.24:19,Nic.Eth.X1.1172b3-8)。

 

4代刑代贖こそ鍵箇所の中心という主張の諸問題

 [問3]:何故内村は3:25-26節を「キリスト教の中心点」「最重要の句」として鍵箇所の鍵と主張するのか(日記1928.12.2,26:186)?鍵箇所が信義不分離の啓示の報告であるとき、「今や業の律法とは分離され」たはずの律法に基づく義例えば代罰の神の義は排除されたのではないか?

 内村は「神の忿怒と贖罪」(1916.4,22:237)において25-6節が「代刑代贖(贖罪)」「代刑代罰」理論の基礎にあると解する。神の怒りに内村は侮るべからざる神の真実を見る。「神は愛である、而して愛なるが故に彼は罪に対して熱烈の忿怒を発し給ふ」(237)。神の怒りは罪の値である死を逃れる悔い改めを促す。その証拠にイエスのパリサイ人への呻きの言葉「ウー(ああ禍ひなるかな)」で始まる偽りへの七つの叱責を挙げる(Mat.22:13)。「余輩は人類の罪に対する神の忿怒を離れてキリストの十字架を考ふることは出来ない・・神は其独子の上に人類のすべての罪を置き給ふた・・キリストは茲に人類を代表して人類の受くべき罪の適当なる結果(刑罰)を己が身に受け給ふた。・・十字架は聖子の受くべき審判としては悉く不正であり、然れども神に反逆き来たりし人類の審判(刑罰)としては悉く正しくあった」(239-40)。

 内村はイザヤ53章を引き[主張6a]:「キリストの十字架を人類の罪の代刑代罰として見る」。新約では鍵箇所25-6節「神はその血に由りてイエスを立て信ずる者の挽回(なだめ)の祭物(そなへもの)とし給へり」(「邦訳聖書」(26:186),cf.大正六年「改正訳」32:367)を挙げ、十字架を罪と罪人とに対する「神の態度を更(かへ)るために必要であった」と罰から赦しへの態度変更の出来事と解する。「ここに代贖と赦免と救ひとが最も明らかである」(22:241)。内村はこの二節に「神は愛である又義である」という「楕円形」なる「基督教的真理」の「心霊的宇宙」が描かれているとする。「憐憫と誠実と共に会ひ、公義と平和と互に接吻せり」(Ps.85:10)が引証され、それが「十字架上の死に由て解決され」たとする。[主張6b]:「義罰を経ざる赦免は信頼するに足らない、愛を施すに途がある、又之に与かるに途がある」とし「キリストが我らの罪の代りに十字架上に於いて罰せられたという事を」信ずると結論づける。

 五年後の「講義」においては「代罰」という言葉は避けられているが、「意訳」により25-6節の解釈が補強されている。自訳では「神は予めイエスを立てて其血によりて信ずる者の宥和(なだめ)の供物となし給へり、是神の忍耐を以てする巳往(すぎこしかた)の罪の赦免に関し今の時に彼の義を彰さんため也、即ちイエスを信ずる者を義とし給う方で、ご自身も尚義たらんため也」とあるが、こう意訳されている。「神はイエスを立てて宥めの供物となし給へり(是れ信仰に由りて受けられるべきもの、其血を以て提供せられしものなり)・・是れ一には神が忍耐の中に既往の罪を見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため、二には、今の時に其義を彰はさんためなり。是れ神自から義たり、而して同時に亦イエスを信ずる者を義とせんがためなり」(26:186)。意訳では罪を見逃してきた律法に基づく義を恢復するべく「見逃し給ひし事につきて其義を彰はさんため」と祝福と呪いのもとにあるモーセの業に基づく義をもはや見逃さないという仕方で読む。しかしテクストは「~つきて」ではなく「見逃し故に(dia)」と福音啓示の「好機」の理由づけの一文である。さらに自訳では25節の連言「そして(kai))」が「尚」と二つの主張の結合に訳されていたが、「同時に亦」と業の律法に基づく神の義と信に基づく義認の同時性が強調され、キリストの十字架の一つの出来事のうちに二種類の義を読む。審判によるモーセ律法の神の義と信仰義認をもたらす神の愛が十字架の代罰において共存しえたという彼の主張が鍵箇所の意訳により提示されるに至る。

 内村は「十字架の福音」が「福音」であるとし「キリストの十字架・・神の愛、その義、その怒り、その赦免、すべてが其[福音]の中に含まれている」と非分節的に言うとき、律法の混在を十字架に見ており純福音の析出に失敗していると言わねばならない。第17講「神の義(一)」で「全く律法を離れて信仰だけの人となったのが真の基督者である」(26:167)とあれほど律法からの解放を伝えているにかかわらず、当の神が律法の枠の中で或いはそれと共に福音を啓示していたことになる。

 鍵概念は七十人訳で用いられるhilastērion である。この語は文字通りには神がモーセと会見すべく造作を命じた幕屋に置かれ、その上に犠牲の子羊の血がふりかけられる契約の箱の「蓋」を意味する。この語は「宥めの供物・犠牲(Suhne Opfel)」や「贖罪の犠牲(sacrifice of atonement)」また「恩恵の座(Gnadensthul)」(Luther)や「現臨の座(a locus of divine presence)」(C.Talbert)、「会見の場(meeting place)」(N.T.Wright)等と訳されてきた。キリストの十字架の血を罰を含む犠牲の一種として理解するか、そこにおいて神が人にまみえる福音の実現の蓋ないし座と看做すかが分かれる。

 内村は「宥めの供物」を「宥め」という訳語に引きずられ、親子関係の比喩により、悪事を為した子に怒るとき、「親より子を宥めることはできない」とする。その比喩のもとで「到底神より人を宥めると云ふ事のありうる筈はない。・・人より神を宥めるのであるに相違ない」(188)と理解する。この箇所の「差し出した」の啓示の行為主体が神であることが揺るがない以上、「宥めの供物」として「差し出した」のが人間イエスであるという理解は端的に主語の取り違えとして文の有意味性を破壊する違反である。しかし、内村は人間の罪の処罰と義認双方をこの語に担わさせることにより、実質的には人より神への「宥めの供物」と共に神から人への「恩恵の座」双方を意味すると多義的に理解している。これはパウロが曖昧だったという主張を含意する。

 [問4]:内村によるhilastērion の多義性の要請はパウロのこれまでの双方の判別による純福音の析出の議論をだいなしにするものではないのか?私見によれば「今や[業]の律法を離れて」、「神の義」と「イエス・キリストの信」つまり彼に帰属した「信」の間に「分離がない」そのような仕方で神の信義が神の前で「信じるすべての者」に啓示されている。(「というのも分離はないからである」(3:22)はVulgata ‘non enim est distinctio’以来人の信仰の間に「区別(差異)がない」と一様に訳されてきた)。この神の信義の分離のなさが23-26節の長い一文において「ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において」また「ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出した」により説明されている。実際この鍵箇所において「信」と「義」が十度も用いられている事実が示すように、神と人双方の信に基づく義が主題である。これまで司法的次元における執行を「忍耐」において「見逃していた」が、ナザレのイエスが信の従順を貫いた今という「好機」においてこの信に基づく義が業の律法とは「分離」されて、しかし「イエス・キリストの信」とは「分離がない」そのようなより根源的な神の義が啓示されている。ヒエロニムス以来の誤訳が内村をして律法からの福音の析出に失敗せしめたものと思われる。

 これを指摘したうえで、内村に譲歩して、イエスから神への供物を恩恵として受け止めるには、一旦子より父への宥めとして捧げそれに父は満足しそれと同時に、父が人類の罪を処罰せざるをえず、子において罰することにより父と子双方が人類にその宥めによる和解を提供したと読み込まねばならない。[主張6]:「神は・・罰すると赦すと、罪に定ると義とすると、二つの事をキリストの十字架を以て同時に行った、即ち「神自から義たり、同時に亦イエスを信ずる者を義とせんが為なり」」(191)。これが鍵箇所中心の解釈である。

 しかしテクスト(25-6)は帰結の不定法「ご自身が義であることへと至る」と共に現在分詞「イエスの信に基づく者を義とすることによって」が連言「そして(「意訳」は「同時に」)」により結びあわされている(「イエスの信に基づく者」という訳は同じ構文である「アブラハムの信に基づく者」(4:16)により裏付けられ、アブラハム「への」信仰は想定できない)。従って、この箇所では二つの主張がなされているわけではなく、「イエスの信に基づく者を義とすることによってもまた(即ち律法に基づく神の義とは別に)神自らが義であることへと至る」と訳さねばならないはずである。同時に罰と赦しの二つのことが遂行されているわけではない。神が信に基づき義であることの論証に向けて、神は人類に対しイエスの信の従順に基づき義とすることをこの「好機」に知らしめている。

 内村の信仰の特徴は十字架上で神の怒りを一身に帯びたイエスを仰ぎ見る、そこに感恩の情が湧くそのような信仰である。しかし、この解釈にはただちに困難が伴う。その不条理さは、ひとつにはもしそれが茶番であれば、即ち子なるイエスに父なる神が甦らすことを予め知らせつつ罰したふりをしているならば、そのような神は偽りであろう。また、神はイエスが罪なきことを知っているはずであり、内村も「聖子の受くべき審判としては悉く不正であり」と認識しつつ、罪人の身代わりとしてイエスに真剣に怒りをぶつけ人類の一切の罪を担わせ最大の罪人として罰し、呪ったとするなら、そのような神はイエスその人に対し不義を為したことになる。神は「業の律法」「モーセ律法」に即しても「信の律法」「キリストの律法」に即しても義であり聖であるはずである(Rom.3:27,3:20,10:4,1Cor.9:9, Gal.6:2)。

 [問5]:「贖い」とは「今や、キリスト・イエスにある生命の霊の律法が君を罪と死の律法から解放した」(Rom.8:2)、「キリストはわれらを律法の呪いから贖いだした」(Gal.3:13)その解放ではないのか?解放する神が自らの義とは「分離される」業の律法のもとに留まっていることはできず、より上位の「分離なき」義を示しうる限りにおいてその解放が可能なのではないか?

 アンセルムスは「理性のみ」にて即ち誤訳された聖書を一切引用せず、父と子の協働による贖いを論証し代罰説を否定していた。彼は父と子の協働の愛による罪の贖い(買戻し(redemptio)、解放(liberatio))を展開して言う、「父なる神が「わが独子を受け、汝の代わりに捧げよ」と言い、また子自身が「われを受け取り、汝を贖え」と言われた場合以上に深い憐みを考えることができるか」(CDH.II20)。この語りに罪を担う身代わりの死の理解を父子は共有しつつ、子は父の意志に「真っすぐ(rectitudo)」の従順を貫き人類の罪を担い父はそれを罪を贖う十全な力あるものとして嘉みした、その憐みの連携が見られる。命じられているのは犠牲の捧げではなく憐みの受容である(cf.Hosea 6:6)。十字架において神は「キリストのうちにいた」のであり、その現臨の座において信の従順を貫くよう励ましていた(2Cor.5:19)。

 「神の忿怒と贖罪」の代罰説は藤井武「単純なる福音」(188号1916.3)への反論であるが、藤井は正しく「実に「神の義は律法の外に顕れ」たのである、而してこの純福音のみが我等の頼むべき隠れ家である千歳の磐である」と結論づけていたことになる。二人の論争は純福音が奈辺にあるかをめぐっていた。内村のように人間の側から見れば「業の律法」と「信の律法」(3:27)を啓示した一人の神は怒りもしまた義認もしようが、鍵箇所は神の信義の分離なさに基づく業の律法からの贖い即ち解放の啓示行為についてのパウロによる報告だったのである。

 パウロは「神には偏り見ることはない」(Rom.2:11)と一人の神に秩序ある二種類の正義を見る。一方、神は業の律法のもとに生きる者には業の律法を適用し、そこでは「すべての律法を為す義務がある」こと故に、「律法を行う者たちが義とされるであろう」、「神はおのおのにその業に応じて報いるであろう」(Gal.5:3,Rom.2:13,2:6)。だが「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」と結論される(3:20)。他方、信の律法のもとに生きようとする者、「神の善性」に留まろうとする者には神は「イエスの信に基づいている者」かにより審判を遂行する(11:22,3:26)。

 

5絶筆における神の前のロゴスの析出

 内村の困惑は実際、3:25-6節について「詳細は他日に譲り茲には大意を述ぶるに止めたい」と言い、「鍵」の一部3:27-31に至っては一行を与えるのみであり、夏休み明けの次講義では「ペテロ前書」を講義する事実に確認される(186,193)。彼は聖書の鍵の問を「講義」後も抱え続けることになる。ただ、1924年に単行本が刊行されたとき満足を表明している。「神の恩恵みに由り『羅馬書の研究』は近来の大成功であった」(日記1924.11.24,cf.1929.8.28)。この充足感は25-6節の講義について「自分は最善を尽くした、今日は今期最後の集会であれば仆れるも可なりとの覚悟を以て講壇に登った、而して聖霊我に加はり近頃になき気持ちの好き講演を為した」とあるように、聖霊に浸る恩恵を「講義」中何度も経験したことに基づく感謝と「聖き誇り」に由来するのであろう(1921.6.12、1929.5.27)。「聖書を正しく理解するところ、そこに聖霊が宿る」(ルター)であろうが、たとえ理論的に問題があったとして、福音が福音である限り人類はあやまちのうちにこそ憐みを受けてきたのであると思われる、真理に対し幼子である限り。

 この満足表明にも拘わらず、実際には彼はその後も注解書を買い求め同じ問題を反芻し、時に予定の教義に再会し改めて無償の救いを見出し、時に信仰条件説を確認し、時に読者から「哲学熱」への「反対」を受け、「哲学を恐れ」ないよう励まし「神と人」の二元論の具体化を模索している(日記1928.5.17,5.23,7.24)。「わが旧き信仰に立ち返りて歓喜極まりなしである。エレクションである、予定である、わが信仰の真髄は是である。神に予め救いに定められずしてわが救はるる理由は一もない。・・自分に救わるるの何の資格なくして、神の至上意志によって救わるるのである」。予定の教説は「神の側」では即ち永遠の現在において時空を自由に行き来する神においては私が明日何をするかまですべてが知られてれており、個人の選択の自由が棄損されることなく恩恵の無償性、贈り物性の主張を根拠づけるものとなる(1928.5.3、「予定の教義」1904.5,12:175ff)。他方、鍵箇所のフォーブスの注解を紹介し、「神はキリストに在りて人類の罪をすべて赦し給うた。人は今は唯信ずれば救わる、但し信ぜざれば救われないと言うのである」(1928.12.2)と条件説を再提示している。

 内村が恩恵の無償性と恩恵を得る為の信仰の条件性の間の矛盾緊張を理解しなかったはずがなく、その神の前と人の前の緊張の解決を哲学に求めたのだと思われる。彼は言う、「オイケンやベルグソンの方が、神学者よりも遥に有益であ」(日誌1926.9.293)。この発言は従来の聖書学や神学では解けない問を彼は少なくとも抱えていたことを示している。

 「絶筆」である「三種の宗教」において、内村はこの[X]「信ぜざれば救われない」を乗り越え、実質的には御子を介した「神の恩恵」とそれに「応ずる人の信仰」の神の前におけるあらゆる現在に妥当する不可分離な[Y:不分離説]を捉えていると思われる(1930.2.355号,32:303)。

 [主張7]:「基督教は最高道徳でない、贖罪教である。キリストに在りて神が人類の罪を滅ぼし給へる其事実を示せる宗教である。・・「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」と教ふる宗教である。・・人が自から神を求むる時に彼は芸術的に又は倫理的に彼に近づかんとする。然れども神が人を求め給ふ時に人は信仰を以って神に到るより他に途がない。信仰は神が備え給ひし救いの途に自己を信(まか)す事である。信仰に手段方法は何もない、唯信ずである。・・神の恩恵に応ずる人の信仰、それが眞の基督教である」。

 何であれ神が求め自ら備えているものは自己完結的である。自己完結的な神の前の現在における「神が人を求む」という神の前の視点と「人が自ら神を求むる」という人の前の視点が判別されており、もはや原理と事実や過去完結性とそれを受領しまた受領しない人の心的態勢は問題とならない。「神が人を求め給ふ」時、神がご自身の義の啓示において「神が備え給ひし救ひの途」とはイエス・キリスト即ち真の神の子にして真の人の子に帰属した「信」であり、この「神の恩恵に応ずる人の信仰」は神により理解されている限りのご自身の信義に相応しい人の信仰である。神の前の途の構成要素として恩恵により備えられた救いの途と「他に途がない」その途に「自己を信(まか)す事」はその上りと下りである同じ不可分離の途であり、恩恵と信仰の不可分離な二項一組を表現している。これは神が理解する限りの[Y]の一般的な言明(ロゴス)に他ならない。神に求められる人の信仰は[Y]「恩恵に応ずる人の信仰」のことであり、神にそのように備えられ嘉みされている「信じる者すべて」(Rom.3:22)が神の前の事柄として捉えられている。ここで信仰は何か他の目的成就の「手段方法」としての「条件」ではなく、必然の途として恩恵による救いと不分離な仕方で提示されている。なお聖研終刊号においても彼は「神の賜物は・・神の子キリストと之を信受する信仰」と言う(357号1930.4)。

 「絶筆」においては、「唯信ず」により信仰は唯一つしかありえない神に備えられた応答の途であり二元論を構成する不分離な二項一組として自己充足的、自己目的的なものである。その限り、[Y:不分離説]はあらゆる今(現在)にも妥当する「神の知恵と認識」(11:32)の一般的な言明として、 強弱ある個々人がその都度持つ信仰とは分節することが許容されている。恩恵に応じる限りにおける人の唯一の途が論点であり、その信徒をも込みにして神の前[Y]の構成要素とされている。

 このような状況であるとき、「「汝ら我を仰瞻せよ。しからば救はれん」と教ふる宗教」という一般的な教説の提示における命令文と「しからば」の結合は、後続文の「他に途がない」その「神が備え給ひし救いの[唯一の]途」が恩恵に応答する信仰であることを考慮する時、より厳密な必要十分条件として提示することを許容している。「汝ら我を仰瞻している場合にかつその場合に限って汝ら救はれている、また、汝ら救はれている場合にかつその場合に限って我を仰瞻している」。他方、[X:条件説]なら、「信じなければ救われない」が仮に人の前で真であるとして、「信じるならば救われる」は論理的に帰結しない。どのような信仰を持つかが問われるだろうからである。(「人間でなければ日本人ではない」が、「人間であるなら日本人である」わけではない)。

 かくして「我を仰げ」の命令は必要十分な関係にある信義不分離の神の前の一般的な言明として理解しなければならない。理論的に純化された内村の仰瞻の信仰は神の前の二項一組の父と子の相互の信頼による交わりである。人生の終わりに仰瞻の対象が通常の三人称「イエス」(29:343)や「彼」ではなく「我」に変換され神の前の事柄としているところに、内村の勘が研ぎ澄まされていることを確認できる。

 内村は「神と人」の二元論のもとそれを適切に分節、総合する方法を模索しており、死去半年前の真理の楕円説の構想に至ったと思われる(「楕円形の話」351号, 32:207)。晩年の「哲学熱」に対し読者から「福音は聖霊のバプテスマを受くるによりてこれを信ずるのであるからこの世の知識なる哲学の援助など借りる必要はない」との哲学への「反対」が寄せられた。読者は内村の教えに忠実であり、常に[Z:聖霊媒介説]のもとに聖書を読み、実人生を構築してきたと思われ、内村その人により梯子を外された感覚を懐いたことであろう。

 彼の応答はヒュームにより「一度破壊され」た信仰を「建て直すために非常に必要であった」経験に訴えるものであり、無償性と条件性の緊張の克服を哲学的分析に託したと思われる。彼は真理の楕円説において「キリストは神であって亦人である」(32:208)と語るとき、「初めに理(ロゴス)があった、理は神に向き合っていた。理は神であった。・・その彼は人と成った」を念頭においたことであろう(John.1:1-6,cf.Rom.11:36)。万物はこの理であるキリストにより形成された。それが神の側としては「イエス・キリスト」を介した分離なき信義の一回的啓示行為に結実し、人の側ではナザレのイエスの信の従順の貫徹に結実した。

 この恩恵を表現しうるものが楕円説であり、鍵箇所を楕円化すればこうなる。その「分離なき神の信義」は神に嘉みされたナザレの「イエスの信」の従順の貫徹の働きとともに二焦点を形成する。神の前の「神と人」のその分離なき二焦点は「イエスの信に基づく者」の義認を秩序ある楕円軌道において遂行している(3:21-6)。ケプラーの三法則に対応するそのロゴスとして「神の信義は神の愛故にモーセ律法の業に基づく義より根源的である」が発見されよう。楕円化を人の前に拡張すれば、真理を真理の為に愛する哲学の営みと福音の真理への愛も二焦点としてこのように楕円的に喜ばしい一つの真理探究の生を形成する、愛は喜びを伴いそして喜びは人を幼子にするからである。

結論

 内村は「三種の宗教」を結論づける、「今度私が死んだとして、私は私の絶筆として此端文を遺して恥としない。私が生存(いきのこ)るならば此信仰を繰り返すまでである」(32:304)。この発言に彼の新しい手応えを見て取れる。近似の信仰理解は既に「信仰の秘訣」にも見られ、鍵箇所だけが福音の真理また信の根源性を伝えるわけではないことを示している(1909.10,16:486)。とはいえ彼が鍵箇所を自らの告別式で読むよう指示したとき、神の前の信義不分離の福音の真理は一切を秩序づけていることに思い至っていたことであろう。「宇宙万物人生悉く可なり」が最後の言葉であった(357号,1930.4)。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

21世紀の宗教改革:福音への帰還と福音の真理への与り

第二回大頭研究会要旨 「21世紀の宗教改革:福音への帰還と「福音の真理」への与り―福音は決して手垢で汚せない!―」 2025.1.15

オンラインにて視聴いただけます。

主にある友へ、
 早くも1月の後半に差し掛かっています。続いてお元気でお励みのことと思います。こちらはロス郊外の大火事と世界の動きで落ち着かない中にいますが、守られています。
 1月15日に持たれた「千葉先生を囲んでーその2」の動画YouTubeと要旨をお送りいたします。要旨は77条にわたる「21世紀の新しい宗教改革」に至る経緯を含めて記されていて、動画でその流れを追うことができますので、是非ご覧ください。
 なお「千葉先生を囲んでーその3」を4月9日(水)午後1時半から3時までで予定しています。講義内容と資料は後ほどお送りいたします。
 皆様の続いてのお働きと歩みの上に豊かな祝福をお祈りいたします。上沼昌雄

https://youtu.be/pnIxuW8vOlo

 〇宗教改革の sine qua non (不可欠条件)

 懐疑と信仰の循環の自己食尽に打ち勝つには探求によって得られる「キリスト・イエスの認識の卓越」とそれに伴う「内なる人間」の刷新による「変身」がキリストに似た者となるべく不可欠であるということ。

 一同が「福音の真理」の新しい読みに心から納得して、福音の喜びにあふれていること。

 その喜びの福音を異邦人の言語(英語)にして広く普及させること。

〇人類は一回限りの歴史を辿っている。16世紀の宗教改革はその後の歴史形成に大きな影響を与えた。21世紀の宗教改革は福音への帰還を通じてまたその真理に与(あずか)り、あらゆる実り豊かな行為においては心魂の根源において疑いなき幼子の信が生起することが求められていること、そこに喜びが伴うことを伝える。また知性において躓きにある人々に福音が理に適うものであること、誤訳が正された時、どれだけの知的解放が得られるかを伝える。信の哲学は一般的に心魂における信の根源性を開示し神学の基礎を与える(クレメンス引用)。また福音が健全なものであることの証として、正しい信仰は愛を生みだすものであるが故に、信じる者はその正しさの証として隣人愛に向かう(Luk.7:47)。キリスト教会内の目標としてカトリックとプロテスタントの和解に心がける。ひいては歴史の平和的形成に貢献することもあるであろう。

「主の到来以前には哲学はギリシャ人にとって義のために必然であった。・・主がギリシャ人を召されるようになるまで、哲学はギリシャ人に直接に、根源的なものとして与えられていたに違いない。なぜなら、ちょうど律法がヘブライ人をキリストに導いたように、哲学は「ギリシャ人の精神」をキリストに導く「教師」であったからだ。つまり、哲学はキリストにおける完成への道を整える手段であった」(アレクサンドリアのクレメンス 2世紀前半)。

 

  → パウロは主の年一世紀における(旧約)聖書学者であり同時にギリシャ哲学者であった。「主の到来」によりパウロは「キリストにおける完成」を理解する哲学的基盤を与えるものとなった。「福音は人間に即したものではない」その「福音の真理」は人々の間に留まり、分かち合われる(Gal.1;11,2:5)。

 

「先に伝えたように、今私は再び言います、もし誰か君たちが受け取ったものとは異なる福音を宣べ伝える者があれば、呪われてあれ。というのも、私は人々を説得しているのかそれとも[誤った福音により]神を説得しているのか、或いは、私は[神ではなく]人々によって喜ばれることを求めているのか、ということだからです。もし私が人々を喜ばせようとしてきたなら、私はキリストの奴隷ではなかったことになります。というのも、今私は君たちに知らせるからです、私によって伝えられているその福音は人間に即したものではありません、というのも私はその福音を人々から受け取ったものでもまた教えられたものでもなく、むしろイエス・キリストの啓示を介してのものだからです。というのも、君たちは私がユダヤ教にあったときの私の回心を聞きました、すなわち私は度を越えて神の教会を迫害しそして破壊したからです、・・。2:4ひそかに入り込んだ偽兄弟の故に、彼らが誰であれキリスト・イエスにおいてわれらが持ったわれらの自由を偵察すべく忍び込んだのです。われらはひと時も彼らに従属し譲歩しませんでした、それは福音の真理が君たちに留まるためです」(Gal.1:9-2:5)。

 

〇キリストを知ることそして彼の復活の力に与ることの絶大な価値を知ることが宗教改革の目標となる。

 

「私は熱心に関して教会を迫害する者であり、律法における義に関しては落ち度なき者となりました。しかし、私はキリストの故に私にとって何であれ利得であったものごと、これらを損失であると思うにいたっています。しかしまことにその上むしろ(menoun ge, yea rather)、私はわが主キリスト・イエスの認識の卓越していることの故に、あらゆるものごとを損失であると思っています、なおその彼の故に私はあらゆるものごとを失い損しましたが、私はそれらを塵芥(ちりあくた・排泄物)であると思っています。それは律法に基づくわが義ではなく、キリストの信を介した、その信の上の神からの義を持つことによって、彼を獲得するにいたるためでありまた彼ご自身のうちに私が見いだされるためです、その結果、 [キリスト]ご自身とご自身の復活の力能を知ることになります、そしてご自身の死と同じ形姿の者となることによって、ご自身の諸々の受難への共同の与りを知ることになります、もしいかにかして死者たちのなからの復活に到達するのなら」(Phili.3:6-11)。

〇わたしたち誰もが同意できることがある。パウロはここにいる誰よりも神についてその認識、行為をより良く知っている。なぜなら、あまりにも理解しがたき文章の連続であるが、少しずつ理解するにつれ、もっと理解したいと思うそのような議論が展開されているからである。そして人類はこの書簡とその神学理論のもとにあるイエスのエルゴンが報告されている福音書を最も多く読み、愛しまたこだわり続けてきたからである。「ローマ書」における彼の主張の一つは生身の自己(C)と罪の癒着さらには義との癒着を解くことであり、「神の前の自己完結性」と「ひとの前の相対的自律性」の言語網を展開することにあった。神の前の自己完結性の言語網は神になりかわって、神の福音を報告する大胆な行為である。彼は「或る部分より一層大胆に書いた」と言っている。神の前と人の前の分節故にこそ、聖霊の執り成しの働きまた罪との癒着も明瞭なものとなる。

それ故に、これは探求を促すのであって、彼を信じ教師である彼の教えを鵜呑みにすること(洗脳されること)ではない。信仰という自らの意識のなかに彼の教えを閉じ込めることでもない。そこには必然的に解釈学的循環が生じる。パウロ自身言う、「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは」。パウロと共に「叡知の刷新」(Rom.12:2)により神について探求する。「後ろのおのごとを忘れつつ、先のものごとに体を伸ばしつつ、キリスト・イエスにある神の上からの召しの褒美を追い求める」。

神ご自身の認識や判断をパウロは報告しており、神の前の言語に習熟する必要がある。われらが人間中心的に考えるものとは異なる壮大なる計画のもとにおける救済の行為の報告がパウロにより展開されている。「主は言う、わが思いは君たちの思いと異なり、わが道は君たちの道と異なれり。天の地より高きが如く、わが道は君たちの道よりも高く、わが思いは君たちの思いよりも高し」(Isaiah.55:8-9)。パウロによれば、われらが信じることの喜びにおいてないのは、それは「叡知の機能不全」(Rom.1:28)のゆえに、罪に引き渡されてしまっており、神の憐れみの思いを知ることができないためである。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。

ひとは問うでもあろう。神の言語網に習熟すると言っても、それは人間の言葉で理解する限りの神の認識や判断の報告となる、と。人は自らの意識の外にでることはできず、神の前のことがらをそれ自身として析出することは不可能であり、それは思い込みとしての信じ込みによってしか、神の言葉として祭りあげられないのではないか?さしあたり、これに対しては「神の語りの言葉はユダヤ人に信任された」(Rom.3:2)のであり、人間の言葉でなければ、異言になってしまうであろうと応えることができる。神は人間の弱い言葉によりご自身のことが伝達されることを許容したのである。

さらに、この意識内の自己食尽から逃れるには、実在論のもと、知識を求める探求が不可欠となる。神の前の自己完結的な整合的な言語網の解明は第一段階のロギコス意味論の解明である(logikos「いかに語るべきか?(pos dei legein)」という問のもとでの矛盾律に基づく言語の規範的な使用)。それをもとに、その指示が届くものとして意図された対象が存在するか、即ち働きにおいてあるかを知ることへと向かう。ものごとはそれ自身の理(ロゴス)を持ち、それが働きにおいてあることを掴むとき、それは意識内のことがらではなくものごとの認識である。ものごとの理を心魂の最善のロゴス(言葉)は掴むことができる。心魂の言語網内における整合説の真理は心魂とものごとの対応説の真理の基礎である。

〇探求とその方向

パウロは自らの責任ある自由において、聖霊を今・ここで注がれているという自覚のもとにキリストの執り成しの言葉と働きを語る。一方で直接的な聖霊への言及のなかで、肉の弱さにおいてあるわれらへの具体的な今・ここにおける執り成しの働きを報告している(Rom.5-9:6)。これは「霊と力能の論証」と呼ばれる(1Cor.2:4)。

他方で、聖霊への言及なしに、彼は神の前の二種類の啓示の言葉を報告している。彼が言葉を語りだす現場はイエス・キリストにある神の啓示行為に眼差しを注ぎつつ、またもう一つの神の啓示行為であるモーセに律法を授けた状況に眼差しを注ぎつつ、言葉を紡いでいる。なおモーセ律法は福音に秩序づけられるものとして位置づけられている。「キリストが信じる者すべてにとって義に至る律法の目指すものである」(Rom.10:4)。パウロはこのように聖霊への言及なしに神の前の信義をめぐる神の知恵とその働きを報告する(Rom.1:17-4:24,9:6-11:36)。

これは「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)と呼ばれる。「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33)。「「誰が主の叡知を知っていたか、ご自身を吟味するのか」。しかしわれらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)。パウロは神の意志をキリストを介して知ることができると主張する(Rom.12:1-2)。パウロは自らの言葉を彼自身の内側のロゴス(神の言葉としてのキリスト)が働きにおいてあるものとして表現している。神の知恵はご自身の信義の媒介であるキリストを介して啓示されており、キリストの叡知の発動を受け取ることにより知ることができる。一方で父と子の協働による神の啓示行為があり、それは十字架と復活に至る信の生涯を通じて啓示されており、他方、生前のイエスが「われは汝らを残して孤児とはせず」、「助け主を送る」(John.14:16.18)と約束したように、聖霊が派遣される。それはわれらの心魂の内奥において呻きをもって、懐疑からの即ち罪からの解放を促している、「あの二千年前の十字架の死はおまえの「古き人間が共に磔られ死んだ」と神が理解していたまう」、と。「信じます、信なきわれを憐みたまえ」。罪の欺きはここにも潜む、「本当に神は、聖霊はそう言ったのか」と。ひとはどこまでも罪と癒着する。生ける清い神の前にでないでよいとするアリバイを工作する。人生に誠実であろうとすれば、少なくともこう語りうる、「真理のみに従って生きていこう、真理の探究だ」、と。

 

〇 パウロの実在論

われらは実在論の立場に立つべきである。実在論とは世界はそれ自身独立に自らのロゴス(理)を持つ或いはそれにより構成されており、人間の最善の理論(ロゴス)はその世界の理(ロゴス)を開示できる、真理を把握できるというものである。それは探求論として「名前(句)は何を意味表示するか?」即ち「語られているもの(例えば「神」)は何であるか?(ti to legomenon esti;)」(アリストテレス)という言語次元における意味の把握に始まる。「神」という語句は「それより先の存在者がない根源的存在者であり、宇宙を理のもとに創造するもの」の如き、探求の始点と方向を提供する。提示された名前や語句の意味は現用言語の網の目のなかで理解され、そして探求の方向を定める。書かれたものに他ならない聖書も一つの現用言語として、「神」の語の意味の理解に貢献する。そこから探求が始まる。(リクールはまず聖書が真であると信じなければ理解できないというが、必ずしもそうではない。書かれたものとしてその語句の意味連関の解明に従事することは聖書が神の言葉であるとも真理を告げているとも信じることなしにも理解できる。これが信じる者にも信じない者にも分かち合える共約的な言語の意味の理解を提供する)。

続いて、その名前により指示されるものが「存在するか?」そして存在の発見は存在だけを発見するということはなく、その自体的また付帯的属性の把握を介してその存在が知られる(例えば「アブラハム、イサク、ヤコブの神」)。その存在の知識に基づきその名前が意味表示しその存在が確認されたところの本質即ちそのもの自体は「何であるか?」が探求される(例えば「神は全知全能でありまた愛である」)。

アリストテレスは問う、「われらは或るものどもについては[事実(SはPである)から理拠(なぜSはPか)とは]別の仕方で探求する。例えば「ケンタウロス或いは神は存在するか或いは否か?私は「Sは存在するか或いは否か?」を端的な仕方[Sのみの表示]で語っている。・・存在することを知って、われらは「何であるか?」を探求する、「神は何であるか?或いは人間は何であるか?」(An.Post.II1.89b31-35)。

発見的探求論においては、パウロによれば天使や擬人化される罪はリアルに存在するものとして発見されており通常幸運や不運に帰してしまうものを乗り越え、神の意図を探求する。探求の第一段階にある初心者はパウロのその主張を言語次元のみにおいて整合的であるかを吟味する。そのことは許容されている。「信じることのなかったその方にいかにひとびとは呼びかけるであろうか。聴くことのなかったその方をいかに彼らは信じるであろうか。しかし、宣教する者なしにいかに彼らは聞くのであろうか。しかし、遣わされなかったなら、いかにひとびとは宣教するのであろうか。まさにこう書いてある、「いかに麗しいことか、よきことを告げる者たちの足は」(Rom.1014-15 神による召し→宣教→聴く→信じる→呼びかける。「信じます、信なきわれを憐みたまえ」)。

神の予定は、パウロと同朋が「われらは知っている、神を愛する者たちには、計画に即して召し出された者たちには、あらゆるものごとが善きことへと協働することを」(Rom.8:28)という知識主張の理由として挙げられている。「なぜなら、ご自身は予め知っていた者たちを、御子自身が多くの兄弟のなかの長子となるべく、ご自身の子の形姿に合致した形姿として予め定められたからである」(8:29)。永遠の現在のうちにいる神の前ではわれらが明日何をするかまで明らかであるが、神の認識や意志(例えば予定)は個々人にはイエス・キリストにおけるほど明晰には知らされてはいない。かくして、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の出来事を自らのこととして信じることは常に実質的であり続ける。

〇 解釈学的循環

 ルター「全聖書がキリストを示し、またパウロがキリスト以外のことは何も知ろうとしなかったので(1Cor.2:2)、全聖書がキリストを説き進めているかどうかを検討するとき、聖書が聖書の解釈者である(scriptura scripturae interpres)という言葉はあらゆる文書を判別する真の規準となる」。(cf.W.A.7.97.21ff scriptura..sit ipsa per sese certissima, facilicima, apertisima, sui ipsius interpres, omnium omnia probans, iudicans et illuminans (聖書は自らによりそれ自身最も確実であり、明らかなものであろう、あらゆる文章があらゆる文章について証明し、判断しまた照明しつつ)。

 真の聖書の著者は聖霊であり、真の聖書の読者は聖霊である。究極的な循環ないし、自己完結。これは神の前の出来事としてありうることである。そしてそれを人の前のこととして肉の弱さを助ける聖霊が主導権を握るとき、そこではもはや一人芝居self-contained playになっている。循環がそこでは生じる。

  「神の言葉は真理である」。「何故か?」。「神は聖書において聖霊を通じて語っており、書かれたものとしての聖書は聖霊を介して読まれるとき、その真理を把握するからである」。神の前の言語はこのように振る舞うでもあろう。ルイス・キャロルの「アリスの不思議な冒険」に登場するハンプティダンプティが「語句の意味は吾輩がそのように意味すると定めたころのものである」と主張する。これは「神」の定義上、万物の創始者にしてそれより先行する存在者がなく、それより先行する言語もない存在者については「神」が語句の意味を決めるそのような仕方で語句の意味は定まるであろう。

ルターが強調する正しい聖書の理解をもたらす聖霊はその著者でありその読者でもあり、そこには究極の同語反復ないし循環が成立することであろう。これは神がそのように定めた場合には、被造物においてもそれは妥当するでもあろう。「人間よ、神に言い逆らう汝はいったい何者か?」(Rom.9:20)。

これは真理でもあろうが、神の前における神と聖霊と神の言葉としての聖書のあいだの相互関係が報告されており、肉においてある生身の人間はそれをその都度信じるよう促されている。その意味で信じることに神の前の出来事が吸収され、還元されてしまう。信仰の自己食尽がそこに始まる。 この循環を切断するには、神の前と人の前を分節し、そのうえで相互の関わりを明晰に秩序づけることに求められる。

〇パウロはその方法論をこう語っている。

「わたしは、神からわたしに賜った恩恵故に神の福音に仕えつつ、わたしがキリスト・イエスの異邦人への宣教者であるべく、君たちが思い返せるように君たちに或る部分より一層大胆に書いた。それは異邦人たちの献身が聖霊のうちに聖められ受け入れられるものとなるためである。かくして、わたしは、神に向かうものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:15-18 tolmesō (1st. sing. aor.subj. tolmeō) 「あえて語る」、「或る部分(=神ご自身の認識と働きのパウロによる報告の部分)」=1:17,3:21-4:25(信に基づく義(神の啓示行為の報告1:17,3:21-26))、1:18-32(業に基づく者への神の怒りの啓示行為の報告)、9:6-11:36(選びの神の知恵):cf.「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)、「互いに教えあう力ある者たち(Rom.15:14)」)。

 キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはない。この「語る」は人間中心的なC次元におけるパウロの責任ある自由のもとでの言葉である、ただし彼の自覚としては 「キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって」即ち、キリストが私を介して言葉により語っており、また私を介して働いているという自覚のもとにあった(cf.「われらの福音は君たちにロゴスにおいてのみ(en logoi monon)生じたのではなく、[神の]力能においてそして聖霊においてそして完全な確かさにおいて生じた」(1Thesa.1:4)。ここでも言葉は聖霊の働きとは分節されている)。

聖霊の執り成しにおける語りと働きはD次元のものである。これを記号化すると、and/or となる。アンドスラッシュオアをパウロは肉の弱さのゆえに譲歩として許容している。「私は君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(6:19)。自覚としては聖霊の媒介のもとで語っているLogD(&)LogC(a-in C)が、人間が受け止めたものである神の前(a-in C)を人間中心的な語りとして自己責任で語っている(LogD(or)LogC(a-in C))。この双方の可能性を表現するものが&/orである: LogD(&/or)LogC(a-in C)。なお今・ここの語りはエルゴン(Er.)であるが、それを一般化するならロゴス(Log)である。

 人間中心的な語り即ち人間的な現用言語の枠のなかで名前の語句の意味の理解を探求の第一段階とする。そこではパウロが言葉を紡ぎだす際の指示上の意図を括弧にいれ、テクストを書かれたものとして受け止め、人称や時制や法等その文法の分析および特徴ある文体の析出さらに文やそれを構成する単語の関連の分析を通じて語彙の意味の理解に従事する。

「聖書」は生きて働いているでもあろうが、書かれた文書に他ならない。人間によって書かれたものは文字の集積であり、それは他の関連語と一つの言語網を形成する。名前や語句等文字の意味はその書かれたものの構成員との関係により理解される。「聖書」は実際に生きた神の言葉であるかを括弧にいれ、文字の集積のなかで例えば「神の言葉」は「ユダヤ人」との連関に置かれる。「神の語りの言葉はユダヤ人に信任された」(Rom.3:2)。この発話は預言者やイエス、パウロのようなユダヤ人が神の言葉を責任を担って報告していることを伝えている。

これらの手法をもとに「ローマ書」全体の「ロギコス意味論」と呼ぶ分析のもとに五つの整合的な言語網を析出した。これらの層は例えば「神」、「イエス・キリスト」、「聖霊」そして「われら」や「彼ら」等の人称代名詞が動詞や前置詞を伴っての言語的な振る舞いの分析を介して析出される。この整合的な言語網はそれぞれ「文字的意味(sensus literalis)」を有しており、そのもとにパウロが意図している指示対象との今・ここの認識ないし出会いに向かう。ロゴスを介してのエルゴンによる対象の存在と本質の探求が始まる。

 この探求の過程は実在論のもと秩序づけられており、発見が成功した場合には聖霊や罪はわれらの外に働きにおいてある即ち実在していることを認識する。最善のロゴスはものごとそのもの、神の前の事実を捉えることができるであろう。「知恵はその諸々の働きからその正しさが証された」(Mat.11:19)。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

パウロの思考様式について―対話―

11月6日(水)大頭研究会

 『信の哲学』の骨子

                                千葉惠

対話を視聴できます。

https://www.youtube.com/watch?v=cDJU_Iwm0NM

主張 「神の前と人の前の分節とそのキリストによる媒介:ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離」

モットー 1 パウロのテクストが立ち上がる現場に立ち会う (五つのボックスと一つの〇のロゴスとエルゴンにおける関わり 下巻 p.418「ローマ書におけるエルゴンとロゴスの相関図」添付)。

モットー2 福音はユダヤ人にもギリシア人(異邦人)にも等しく分かち合われ共約的に理解されうる。「一つの同じ霊がこれらすべてを働く、個々人に望むように分割しつつ。というのもまさに身体(からだ)は一つでありそして多くの部分を持つが、身体の部分すべてが多でありつつ一つであるように、キリストもまたこの仕方であるからである。というのもわれら皆は一つの霊において一つの身体へと潜浸させられたのであり、それがたとえユダヤ人であれギリシア人であれ、奴隷であれ、自由人であれ、そしてあらゆる者たちは一つの霊を飲んだからである」(1Cor.12:12-13)。

基礎テクスト:パウロの方法

 パウロは「ローマ書」における福音宣教を明確な方法的自覚のもとに遂行している。パウロは、彼自身の一般的な道理ある議論とその理に基づく働きはキリスト御自身のロゴスとエルゴンである、という自覚のもとにある。パウロによるキリストが自らのうちで働いていたまうという自覚は、パウロ自らひとの肉の弱さへの譲歩の故に信じる者にも信じない者にも理解できる共約的な地平で議論することと矛盾しない。福音の啓示の故に、われらの生は秩序のもとにある。

 〇「わたしは、神からわたしに賜った恩恵故に神の福音に仕えつつ、わたしがキリスト・イエスの異邦人への宣教者であるべく、君たちが思い返せるように君たちに或る部分より一層大胆に書いた。それは異邦人たちの献身が聖霊のうちに聖められ受け入れられるものとなるためである。かくして、わたしは、神に向かうものごとに関して、キリスト・イエスにある誇りを持つ。なぜなら、わたしは、異邦人たちの従順へと至るべく、キリストがわたしを介して言葉(ロゴス)によってそして働き(エルゴン)によって、諸々の徴と不思議の力能において、霊の力能において、成し遂げたものごとではない何かをあえて語ることはないであろうからである」(Rom.15:15-18 tolmesō (1st. sing. aor.subj. tolmeō) 「あえて語る」、「或る部分(=神ご自身の認識と働きのパウロによる報告の部分)」=1:17,3:21-4:25(信に基づく義(神の啓示行為の報告1:17,3:21-26))、1:18-32(業に基づく者への神の怒りの啓示行為の報告)、9:6-11:36(選びの神の知恵):cf.「知恵の説得的議論」(1Cor.2:4)、「互いに教えあう力ある者たち(Rom.15:14)」)。

 ロゴスとエルゴンはアリストテレスにより明確な理論化が提示されている(1オクターブの調和音は1対2の弦の比(ロゴス)が空気を振動させ今・ここで働く、とは言え素材である空気が比を保持できなくなると、その複合的な働きは止む、ただし理はそのままロゴス上理(1対2)である。遺伝子のロゴスとそのコピーのエルゴン等)。これらは伝統的に対で用いられ、福音書にも多く見られる。「この方[ナザレのイエス]はロゴスとエルゴンにおいて神の前でそしてすべての民の前で力ある預言者となられた」(Luk.24:19)。

 J.エレミアスは言う。「聖書的空間においては、神の霊が自らを顕す時には常にそれは二通りの仕方をとる。即ち「働きと言葉において(en ergō kai logō)」である(Luk.24:19,IThesa.1:5 等多数)。この両者は互いに分かちがたく(unloslich)共存している。働きの伴わない言葉はなく、告知する言葉の欠けた働きもない。イエスの場合も然りであり、その最終的な啓示は二通りの仕方で、即ち力ある働き(本書10節)と力を与える言葉(本書11-12節)において自らを明らかにする(Mat.11:5ff)」『イエスの宣教』(S.89,161)。

(エレミアスが「常に」これら二つの様式の相補性のもとに霊的な啓示が歴史に刻まれているとすることはまことに適切であるが、史的イエスの研究をより包括的なロゴスとエルゴンの相補性のもとに遂行する。イエスの霊的な言葉と働きは一つの今・ここのエルゴンであり、パウロ神学はそのロゴスであるという立場から、「パウロのロゴスが真であるなら、イエスの言行はこのようなものであったに違いない」というエルゴンに対するロゴス上の要請を提示し、それに最も近似な福音書の報告をイエスの今・ここの働きの近似なものであったに違いないと論じる)。

1循環論証をめぐって

 プロテスタントの中心的使信は神の前とひとの前を分けない思考様式から導かれる。

「神の前と人の前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」(カルヴァン)。「信じることは信じせしめられることだ」(ルター)。これはそのつど、今・ここで聖霊の執り成しの働き(エルゴン)を求めることに他ならない。「蛆虫のつまった頭陀袋」である「私が右手で為す善行を左手に知らせないとするなら、それは神がキリストにあって為したまう奇蹟である」(ルター)。

 この主張の真理性は、信じるということは今・ここで神により愛されているということを信じることに見いだされる。心から信じるということは、それは今・ここのことであり、正しい理解であると思われる。「信じます。信なきわれを憐みたまえ」。そこから容易に「信仰のみ sola fide」=「恩恵のみ sola gratia」が導かれる。

 この神の前と人の前を分けない議論は双方から議論を始めることができ、循環論証に陥る可能性を抱える。究極の循環の事例、聖書の真の著者は聖霊であり、聖書を真に理解するのは聖霊の内在による促しのもとに読むときである。聖書の真の著者と真の読者は聖霊である (聖霊による一人芝居a self-contained play by HS)。ルター主義的な恩恵と信仰の循環は次のようになる。恩恵を信じる→信じることは恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である→その恩恵を信じる→その信仰も恩恵である ad infinitum)。

 循環論証の不健全性は、証明されるものが証明するものとなり実質的には何も証明しないことから明らかになる。蛇が自分の尻尾をおいしいと食べ続け、とぐろを巻いている蛇の自己食尽に比せられる。解釈学的循環を主張する人々は例えば子は親により「形成される」。その子が親を理解するとき、それは既に形成された理解を投映していると言われることがある。子はそんなに愚かではなく言わば親に洗脳されてしまうとは限らないであろう。パウロによればひと(肉は自然的な身体を抱えた生の責任ある行為主体)は相対的に知的に自律した者である。

 聖書学者や歴史家が遂行している先行理解の遮断:パウロの宗教的出自、当時の政治や歴史、社会構成の状況などパウロが属していた生活の座の考察からテクストを読むその態度を捨てる。「わたしは君たちが読み、しかも理解することがらの他何も書いていない。君たちが完全に理解してくれるようわたしは望んでいる」(2Cor.1:13)。

パウロによる解決:「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。

 パウロは自らの責任ある自由において、聖霊を今・ここで注がれているという自覚のもとに聖霊の執り成しの言葉を語る(Rom.5-9:6)。他方、神の知恵とその働きを報告する(Rom.1:17-4:24,9:6-11:36)。「ああ深いかな神の知恵と認識の富とは。ご自身の裁きはいかに究めがたくまたご自身の道はいかに追跡しがたきことか。「誰か主の叡知を知っていたのか」」(Rom.11:33)。「「誰が主の叡知を知っていたか、ご自身を吟味するのか」。しかしわれらはキリストの叡知を持っている」(1Cor.2:16)。パウロは神の意志をキリストを介して知ることができると主張する(Rom.12:1-2)。パウロは自らの言葉を彼自身の内側のロゴス(神の言葉としてのキリスト)が働きにおいてあるものとして表現している。その働きそのものを語りにより表明し(テルテオが)書き留めている、そのテクストそのものを創作している現場に立ち会う。

 Papias(circa 60-130)以前は「マタイ福音書」等は匿名でただ「福音書」と記されていた。その主な理由は真の著者は聖霊であって、筆記者自身ではないと筆記者が信じていたことが挙げられる(蛭沼寿夫『新約正典のプロセス』p.145)。この逐語霊感説はパウロ的には神の意志や認識がイエス・キリストを介して知らされているほどには明確には知らされていないというたぐいの教説である。「聖書」が神の言葉と語られるとき、神ご自身がこの人間の記した文書・神と関わるヒューマンドキュメントにおいて表されることを認可・許容したという意味。他方、「神の言葉(logon theou hos = キリスト)は君たち信じる者たちのうちで働いていたまう(energeitai)」(1Thesa.2:13, cf.1Cor.1:30 「われらにおける神からの知恵」、)とみ言葉の受肉そして聖霊の内在による働きを表現することがある。

 なお循環の問題は神の前と人の前の癒着(常にエルゴン上の不分離の主張)によるだけではなく、例えばブルトマンは歴史的手法そのものが循環であると主張する。「様式史研究が他のあらゆる史学的研究と基本的に異ならず、循環論証の一種であることを認識することは、本質的に重要である。というのは、共同体の生活契機は文学的伝承の様式から遡及的に推定されねばならないし、逆に様式は共同体の生活から理解可能となるだろうからである。この二つの見方から必然的に生じる往還関係と二面性を規制し、どこから着手すべきかを規定する方法は存しない」(ブルトマン『共観福音書伝承史I』p.12)。ここで「遡及的に」において伝承された文書などの人間的な認識や実践から共同体という客観的なものごとの特徴の認識へのアクセスが遂行されるということを意味している。他方、文書の諸様式例えば奇蹟物語、譬え話、知恵の教え、預言、受難予告等はこれらがそこにおいて遂行されたものごととしての共同体の実際の働きに基づく。つまり、ものごとの在り様の認識は文書(書かれたもの)に依拠し、文書の作成はものごとの在り様に依拠している。書かれたものとものごとないし歴史は相互依存の関係にある、換言すれば、ものごとと歴史叙述は相互に癒着しているとブルトマンは肯定的に(「本質的に重要」)主張している。歴史学の手法は共同体の実際の認識への接近手段である→共同体の実際の生活様式(生活の座)が文書(歴史叙述)の様式がいかなるものであるかを決める→その実際の生活様式も文書によって接近される→その文書も実際の生活によって規定される。(解決案 最善の説明はものごとの実際の在り様を捉えることができるという実在論的歴史叙述の立場を取ること。ブルトマンは存在様式と認識様式を癒着させている)。

 一般的に、歴史学の基本的な手法、目撃、想起、古文書、遺跡など証拠を挙げることによる過ぎ去ったもののそれ自身として特定する企てである(パウロも復活の目撃証言者として500人を挙げている(1Cor.15:6))。歴史学の手法は経験主義的、実証的な観察可能性の枠組みのなかで遂行される。これはイエスがキリストであることを論証することができるかが問われ、これは歴史学によっては確定されないとしばしば主張される。他の学問的アプローチ例えば文学、聖書学、神学、哲学により補われねば、ナザレのイエスの呼称の多様性に見られるように、イエスが何者であったかを掴むことはできない(「預言者」「ラビ」、「神の子」、「人の子」、「ユダヤ人の王」、「キリスト・メシア」)。

 カトリックはプロテスタントが陥りがちな言葉とものごと(今・ここの働き)の癒着に対し人間の魂の相対的な自律性を認め、アリストテレス哲学に即し、有徳な人間は聖人にまで至る。もちろんそこに恩寵の注ぎはあるであろうが、理論(ロゴス)上神の前と人の前を分離することを許容している。新教は旧教におけるあまりの人の前の自律性の譲歩に胡坐をかいてしまったことに対するプロテストである。

 ロゴス上の分離とエルゴン上の不分離をパウロそして福音書に見出すことができる限り、カトリックとプロテスタントは和解できる。最も望ましいのは先在のロゴスが肉に今・ここで内在している状況である。「言葉は肉となった」。言葉を言葉として摘出でき、言葉の肉におけるその都度の働きは今・ここの個別的な出来事として基本的に観察される。イエスは神の前に義であった。肉の弱さを抱えつつも「神の子の信」「天の父の子」の信により、神の前につまり神の認識のもとでは肉の弱さに負け罪に陥ることなく神の意志を死にいたるまで信の従順により完遂した。

 2ロゴス上の分節とエルゴン上の不分離のテクスト上の根拠

 神ご自身の福音の啓示行為とその関係項(その信が神に嘉みされる「信じる者すべて」をも含む)を「神の前の自己完結性」((A)「神の前の義人」と(B)「神の前の罪人」)として理論(ロゴス)上析出することができる。神の啓示行為は三か所において動詞形で表現されている(Rom.1:17(3:21-26)(信に基づく義認),1:18(神の怒り(業の律法に基づく)、8:18(終わりの日の審判))。(A)「神はイエスの信に基づく者を義とする」(Rom.3:25)、(B)「業の律法に基づくすべての肉は神の前では義とされないであろう。なぜなら律法を介した[神による]罪の認識があるからである」(3:19-20)。

 この神の働きの報告とともに、ひとは「肉の弱さ」(Rom.6:19)の故に、身体の限界が自己の限界であると考えがちであり、神の前にあることを自覚困難な者として譲歩され「相対的自律性」(C)のもとに今・ここの生を実践(エルゴン)上紡いでいる。「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)、「君が君自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)。相対的自律性のもとにある(C)「肉」は(A)「義の奴隷」でも(B)「罪の奴隷」でもありうる中立的な可能存在である。

 そのなかで相補性の最も明確な理解は、ロゴスは普遍的な命題ないしそれにより表現される非感覚的な一なる理(ことわり)のことであり、それがエルゴンに何らか内在する限り、今・ここの働きは秩序を持つということ、そしてその働きは何らかそれ自身可視的ではないロゴスを可視化するというものである。ロゴスとエルゴンの一般的な解明は哲学の中心的な課題であるので、その解明は哲学に託される。

 ロゴスとエルゴン双方の相互の補いあいが必要なことは、人間の知的な営みに普遍的な事象である。例えば算数の学習で時速4キロだとして二時間で何キロ歩くか(4x2=8)の問いに戸惑い、「だって疲れちゃうもん」という聡明な小学生の適切な応答に相互の補いあいの必要が正しく見いだされる。理論上そのとおりでも身体をもつ者には実践上ままならないことが日常的である。普遍化、普遍的な説明言表・ロゴスの解明においては個体の個別事情が考慮されないという宿命を抱える。国民生活等の統計的理解は数字の背後にある生身の個々の生を往々にして見逃してしまう。そうであるからこそ適切な理論が展開されるなら、それは何であれそのロゴスとエルゴンは相互に支えあうことが求められる。大陸合理論と経験論は総合されねばならない。理想的には非感覚的な形相(ロゴス)が質料に内在し、それが秩序ある働きをうみだすそのような理論が展開されるように、ロゴスがそのつどエルゴンに内在し、秩序を与えることであり、エルゴンはロゴスを可視化し、ロゴスの正しさを確認させ、保証することである。

3 発見者の喜び:ローマ書3:21-31

「21世紀の宗教改革77条 序論」から抜粋

3「信」の哲学的言語分析を許容するパウロ神学:21世紀の宗教改革「みなもとの信」の核心

3.1「ローマ書」3章21―31節:改革の起点

 使徒パウロはナザレのイエスの生涯が打ち立てた信に基づく義とその義に基づく業の律法の成就を「ローマ書」において、能う限りの明晰性をもって、言語と心魂そしてものごと(その理およびその働き)という三者の関わりとして哲学的に分析することを許容する仕方で神学的に論じた。神の前と人の前の理論上の分離に基づき、パウロは「わたしは君たちの肉の弱さのゆえに人間的なことを語る」(Rom.6:19)とし、神の前を括弧に入れたひとの相対的自律性を譲歩として認め、単に心情倫理と責任倫理の区別、さらには制度化の許容ということではなく、神の前と人の前の創造から救済にいたる総合的秩序づけを企てている。神の子にしてひとの子の啓示に基づき、先に見た肉の弱さの考慮のもとでの責任倫理をもカヴァーしながらも、「一つのこと[イエス・キリストの出来事]を思慮する」(Phil.2:1-2)集中のもとに人間と世界を包摂する。山上の説教は相対的自律性の許容により希釈されたのではなく、道徳次元を内側から突破するヴィジョンのもとに他の一切を秩序づけつつ語るイエスそのひとにより生き抜かれた(エルゴン)ものである。彼ご自身は肉の弱さをその都度克服されたのである。

 信の律法に基づく業の律法の秩序づけはパウロにより神の二つの意志の啓示として報告され、人の前の相対的自律性を「汝が汝自身の側で持つ信仰を神の前で持て」(Rom.14:22)と神の前の啓示の出来事に秩序づけている。神はご自身の義の啓示の媒介として歴史のなかで生起したイエス・キリストに帰属した信を用いられたが、パウロはその信の出来事を自らの出来事であると受け止めるよう命じる。

 このたび、人類による二千年の探究の蓄積のもとに「信」をめぐる「ローマ書」の言語哲学的研究を通じて、パウロによるキリストの受肉と受難と復活および来るべき再臨による人類救済の議論が神の選びの教説とともに無矛盾であることが明らかとなった。今日までのパウロの神学をめぐる論争は、彼の神学理論の中心的な主張を形成する「ローマ書」3章21節から31節のとりわけ22節(ū gar estin diastolē 従来訳「区別がない」、私訳「分離がない」)のヒエロニムスによるVulgata版(二世紀以降の古ラテン語訳の四世紀後半における彼自身の言葉では「編集」)の翻訳に起因するものであることが明らかとなった(第12、17条)。そこでパウロは神の前のことがらを報告しており、その報告の内容は神ご自身がご自身の義の啓示の媒介としてイエス・キリストに帰属した信を用いられたこと、そしてその信とご自身の義の知らしめにおいて分離がないこと、即ちその信義の分離のなさにおいてご自身にとって根源的な義が信に基づくものであることを明らかにしておられることである。パウロは明確に神ご自身の認識をそれ自身として報告するとともに、そのわれらの外の啓示と人の前すなわちわれらのうちの信との関係の総合的な理解を展開したのであった。従来神の前と人の前の分節と総合が不明瞭であったために多くの混乱が生じたと思われる。

 カトリック教会とプロテスタント教会相互のまたそれぞれ内部における二千年にわたる論争に思いをはせるとき、真剣で誠実なひとびとがそのテクストをめぐって長く争わざるをえなかった事実は、そのもとのテクストの最初の基礎的な翻訳に何らか誤解を生じさせるものが含まれていたと理解するよう促す。原語diastolē(最大希英辞書LSJではdrawing asunder (「双方に引いて分ける」)やseparationがdistinctionより前に挙げられる)の当該箇所のVulgata訳は non enim est distinctio「なぜなら区別がないからである」である。しかし、それ以降調査の限りすべての翻訳において、これがその理由文であるところの前文「神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている」における「信じる者すべて」のあいだに「区別」や「差異」はないと理解されてきた。

 実はひとの心的状態としての信仰に区別や差異がないということではなく、「神の義」とその啓示の媒介である「イエス・キリストの信」のあいだに神の前のことがらとして「分離(separatio)はない」と訳されねばならなかったのである。神ご自身にとって信義はモーセの業の律法に基づく義より一層根源的であることを示している。業の律法に即して「すべての者が罪を犯した」と神ご自身により否定的に認識されており、それを乗り越えるものとして、福音が「今や、業の律法を離れて」啓示されたのである。神の信義の啓示という肯定的なものごとは「イエス・キリストの信を媒介にして」遂行された。神の義とその啓示の媒介者において生起したその信のあいだに分離がないと神が看做されたからこそ、「業の律法を離れて」しかもより根底的な神の義として啓示されたのである。これが明示されていれば、今日までのこれほどの混乱はなかったことであろう。3章21節から31節の正しい翻訳は以下のものになると思われる。

 「 21しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、22神の義は(f1)イエス・キリストの信を媒介にして信じる者すべてに明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信に]分離はないからである。23なぜ[分離なき]かと言えば、すべての者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、24キリスト・イエスにおける贖いを媒介にしてご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、25,26その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けて、その信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである。

 27それでは、どこに誇りはあるか、締め出された。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介して(dia nomū pisteōs)である。28かくして、われらは人間は業の律法を離れて信によって義とされると認定する。29それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、30いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく(ek pisteōs)割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を媒介にして(dia tēs pisteōs)無割礼者をも義とするであろうなら。31それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然らず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:21-31、第12、27条)。

 この福音は「[業の]律法を離れて」(Rom.3:21)つまり神の義はモーセ律法とは分離されうるものであり、しかも「信の律法」(3:27)とは分離なきものとして啓示されたために、神ご自身にとって福音即ち信の律法のほうが業の律法よりご自身の義との関連においてより根源的である。神においてそうであるなら、ひとにとっても神ご自身が信義であることが啓示されたとき、信によって応答することのほうが、「汝~すべからず」、「汝~すべし」の命令のもとでの業の遂行よりも、心魂の態勢、行為として根源的であることが含意される。この啓示の言語網(3:21-26)は神の前の言語網であり、神ご自身の信と義、罪の贖いをめぐる理解がパウロにより報告されている。

 「イエス・キリスト信を媒介にして」については諸条項において解明されるが、ここでは本改革の鍵となる箇所であるだけに次の事実を指摘しておく。職名を伴う固有名「イエス・キリスト」は「イエス」や「キリスト」と異なり行為主体として用いられることはなく、媒介の前置詞「において」や「介して」を伴う(第12、14、15条)。この啓示行為の主体は神であり、御子ではなく、それ故にこの「の」は主格的属格ではない。また啓示は神の行為として神の前のことがらであり、神が理解する限りの「信じるすべての者」が啓示の差し向け相手となり、肉の弱さのうちにあるひとがイエス・キリストに対して持つ強い弱い信仰が啓示の媒介となることはないがゆえに、この「の」は目的的属格でもない。

 この「の」は帰属の属格(genitive of belonging)である。イエス・キリストに帰属したこの「信」は歴史のなかに生起した出来事の範疇において記されている。ナザレの「イエスの信」(3:26)即ちイエスが自ら神の子であるという信仰(=信)のもとに生きた従順の生涯に基づき、神はそれを嘉みし油注ぎ「キリスト」である「イエス」に帰属した信としてご自身の義の啓示に用いられた。啓示の行為主体は父なる神であるため「イエス・キリストの信」という語句の使用において行為者イエスへの言及なしに、神の義の啓示の媒介として用いられた歴史のなかで生起した信をこの語「信」は指示している。この「信」は「信が到来する以前には」(Gal.3:23)と語られることもあり、行為主体への言及を括弧に入れ歴史のなかに到来した信を神はご自身の信義と分離なき十全な信として嘉みし用いられた。ナザレのイエスは行為主体として自らが神の子であるという信を十字架に至るまで貫いた。啓示の専決的な行為主体である神はその生涯にわたる御子の従順の信の生涯を嘉みされたが、パウロはその事態を啓示行為においては二人の行為主体を想定できないことからイエス・キリストに帰属した信として名詞により総括的に表現している。

 その啓示の差し向け相手である「信じる者すべて」は神にその信仰が嘉みされている者すべてのことであり神ご自身が理解する限りの神の前の信徒が指示されている。ここでは肉の弱さにおいてある生身のひとの心的状態として強い、弱いのある信仰は問題とされず、嘉みされた信であることが問題とされており、その信の持ち主は神が義であることを知っている。神の信にはひとは信により応答することが人格的な関係として相応しく、知らしめは信じなければ理解されないという認知的、言語的制約からしても「信じる者すべて」という全称量化は不可欠となる。

 続いて、神の義がイエス・キリストに帰属した信を媒介にして信じると神が看做す者すべてに啓示されたことの理由が展開される。「というのも分離はないからである」。ここで神の信義の啓示が信じる者たちの心的態勢に例えば聖フランシスとヒトラーの信仰に「区別(差異)がない」と看做したことを媒介にして遂行されたとしたなら、彼らの区別なき罪の故にであるというならまだしも、いかにも不可思議である。というのもひとがイエス・キリストに対して持つ区別なき信仰という一つの心的状態が啓示の媒介となることは理解困難だからである(第17条)。人類への愛の故に啓示されるというのであれば、より理解可能なものとなるが5章まで愛の議論は封印されており、ここでは信義の関係に議論が集中しており、信ひとすじにより正義の確立が知らされている。「なぜ[分離なき]かと言えば」と23節から26節まではこの信義の分離のなさが、長い一文において説明されている。

 この誤訳が正されるとき、神の前と人の前の分節と媒介が明確となりまた神の二つの意志「業の律法」と「信の律法」の分節と媒介がさらには「信にもとづく義」と「その義の果実」としての愛の分節と媒介が明確になる。もちろんその媒介者はイエス・キリストである。その分節と媒介そして関係づけの故に、これまでの多くの論争に解決が与えられると思われる。そこでは無償の憐みと正義の両立が解明され、例えば福音と律法、信仰と愛、恩恵と自由、選びの教説と各自の責任ある自由の関係をめぐる論争について決着がつけられ提題で明らかにしていく(第I部)。また贖罪論をめぐり父と御子の協働説か業の律法の枠のなかでの父と御子は審判者と被審判者の関係にある代罰説かの論争について、それに伴い万人救済説についても終止符を打つことができる(第II部)。さらに、福音に基づく一切の秩序づけの試みは人間の心魂の構成要素と働きについて理解を提示する(第III部)。また、結婚や同性愛等の具体的な問題にもこの運動の方向を示唆する(第9、33条)。新しい葡萄酒を新しい革袋にいれる、そのような旧約から新約への展開を確認することができる。この解明はカトリック教会とプロテスタント教会双方がそれぞれ真理契機を担っているものとして、双方にそれぞれの特徴に応じて固有の場を提示し相互の和解をもたらし、ひとの心魂の再生と人類の平和の基盤になると信じる(第IV部)。

 この修正を介して人類の混乱の歴史が改善されるべくここに一つの宗教改革運動「信のみなもと&みなもとの信」を起こす。そのモットーはfons fidei (pēgē pisteōs) et fides fontis (pistis pēgēs)-Iesus Christus sive Sapientia et Fides Dei(信のみなもととみなもとの信―イエス・キリストまたは神の知恵と信―)である。これは二千年にわたり神の前の出来事を純化、析出しきれなかった所謂「福音」それ自身が遂にかつて啓示されたその源(みなもと)の様式に帰還することであり、またわれら自身がその福音に帰還することである。福音それ自身が帰れや!と呼びかけており、それに呼応しこの運動に参加する者たちがこの情報化時代かつてより遥かに狭くなった世界中の隣人に、福音に帰れや!と呼びかける。この新たな宗教改革は聖書の中心的使信が正しく理解されたとき、その古くて新しい言葉がどれだけ歴史を変革する力能を持つものなのか、インクの染みの誤った形姿が人類の血の染みに変わってしまったが、それが (distinctioからseparatioへ)正されるとき、歴史はどう変革されうるのかをめぐる挑戦である。かくして、ここに、御子ご自身が栄光を棄て死に至るまで低くされて打ち立てられた福音に基づき、パウロによる福音の理論が無矛盾であることを世界に知悉せしめるべく基本的な提題とその論説を77か条挙示する。

 これらの提題はもちろんあらゆる神学的、聖書学的問いに応答するものではない(例えば、三位一体や神の言葉にしてひとの言葉である「聖書」の理解についてのこの運動の基本的立場の提示は第44条)。「ローマ書」の当該箇所が修正された場合に核心から波及される理解の限定された展開以上のものではない。しかし、パウロ神学の中心的な箇所の修正であるだけに、波及は重要かつ深遠であるに相違ない。それは信のみなもと即ちみなもとの信に帰るとき、ひとの心魂はどれほどの変革を蒙り心魂の刷新に導かれるかの挑戦であり、人類誰もが種として同じ心魂を持つ限り、心魂の新創造の根拠の解明は新しい宗教改革を起こすに値すると信じる。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一(最終回)

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十一回(最終回)

録音においては、この講義の背景にあるものまた今後の計画などを話しながら結論をお読みしました。最終回ですので、祈りました。よい春をお迎えください。2024年3月16日

結論

 ひとは問われている。善悪因果応報の法則を信じるか。それならば善いリターンを得るべく、黄金律のもとに生きよう。これは道徳的次元のみにおいて語りうる実践的効力の教えである。しかし、山上の説教においては、善悪因果応報を無視したと思われる無償の「贈りもの」が「善人にも悪人にも」差し出されている。それが神の憐みであり、その極は御子の十字架と復活である。この福音は自己完結的であり、ただその差し出しの前にひとは立ち、その恩恵の外に立つことはできない。神の前の出来事は自己完結的であり、ひとの前の出来事は譲歩された相対的な自律性においてあり、端的な自律性においてないからである。神の前に憩うまで、ひとの良心は宥めをえず、信によってしか理解できないこととして何よりも恩恵はわれらが汚すことのできない一切を支える根底的な場所において明白に立てられたからである。山上の説教はそれを自然事象そして人間事象を介して教える。「聞く耳ある者は聞け」。

 生命にいたる狭い門から天国に入った一人の人がいる。それは罪のなかったこと故に神の子であることが判明した。そのひとは永遠の生命のうちに神の右の座にいて或いは各人の心魂の根底において聖霊として神の意に「即して」執成している(Rom.8:27)。パウロ同様、キリストがわがうちに生きるのであれば、山上の説教を充たしうるそのような希望が湧いてくる(Gal.2:20)。数百ある律法は「律法の冠」である「愛」に収斂されている(Rom.13:10)。イエスは「律法の一点一画も廃棄されない」(5:18)その神の意志への尊敬のなかで、「律法全体と預言者が依拠している」愛に業の律法を集中させ、信の従順により愛の律法を成就した(5:45,17,2:40)。愛は信の律法に転換されている。「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)。イエスは野の百合空の鳥に見られる神の愛を自ら生き抜き自らの信義の証である復活の生命を介して、信義と「義の果実」としての「愛」これら二つの神の義を媒介した(Phil.1:11)。そこでは「信の律法」により最も純化されたモーセの「業の律法」が秩序づけられたと言うことができる。

 ひとはすべてキリストを介して、無償で贈りものとして神からの正義を受け取る者とされた。善から善、悪から悪への因果応報の法則は父と御子の協同行為によりわれらの心魂の根底において一旦断ち切られている。パウロは福音の自己完結性を伝え、神の二つの意志である業の律法と信の律法がいかに秩序づけられるかを述べている。父と子の協同作業は自己完結的であることが、神自身の即ち神の前の事実として自己言及において報告されている。神のみ旨はパウロによりこう報告されている。「われら知る、律法が語りかけるのは、律法のもとにある者たちに告げることがらは何であれ、すべての口がふさがれそしてすべての世界が神に服従するためであることを。それ故に、すべての肉は業の律法に基づいてはご自身の前で義とされることはないであろう。というのも、律法を介しての[神による]罪の認識があるからである。

 しかし、今や、[業の]律法を離れて神の義は明らかにされてしまっている、それは律法と預言者たちにより証言されているものであるが、神の義はイエス・キリストの信を媒介にして信じるすべての者に明らかにされてしまっている。というのも、[神の義とその啓示の媒介であるイエス・キリストの信の]分離はないからである。なぜ[分離なき]かといえば、あらゆる者は罪を犯したそして神の栄光を受けるに足らず、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たちなのであって、その彼を神は、それ以前に生じた諸々の罪の神の忍耐における見逃し故に、ご自身の義の知らしめに至るべく、イエスの信に基づく者を義とすることによってもまたご自身が義であることへと至る今という好機において、ご自身の義の知らしめに向けてその信を媒介にして彼の血における[ご自身の]現臨の座として差し出したからである」(Rom.3:19-26)。

 パウロはこの神の前の自己完結的な啓示行為を報告したのちに、それがもたらす人間の心魂の在り方についての認識をこう報告している。「かくして、どこに誇りはあるか、閉めだされた。どのような律法を介してか、業のか、そうではなく、信の律法を介してである。それゆえ、人間は業の律法を離れて信によって義とされるということを、われらは認定する。それとも神はユダヤ人だけの神であるのか。そうではなく異邦人たちの神でもあるのか。そのとおり、異邦人たちの神でもある、いやしくも神はひとりであり[業の律法ではなく]信に基づく割礼者を、そしてその[イエス・キリストの]信を介して無割礼者をも義とするであろうなら。それでは、われらはその[イエス・キリストの]信を介して律法を無効にするのか。断じて然からず。むしろわれらは律法を確認する」(Rom.3:27-31)。

 かくして、山上の説教はもはや審判の言葉としてではなく、希望の言葉として受け止め直される。山上の説教は信から義へ、義から愛への一本道に位置することになるであろう。イエスは福音成就の途上において、しかしリアルタイムの媒介行為を遂行しつつ、山上の説教を語りそれを生きた。パウロはその十字架と復活の視点から福音と律法を秩序づけることができた。かくしてイエスとパウロは狭き真っすぐな道の途上の言葉とその生の成就の視点として調和する。倫理学の主題である「ひとはいかに生きるべきか」の当為「べし」に含意される実践的効力の問は、イエスとパウロにおいては「愛を媒介にして働いている信が力強い」(Gal.5:6)その力強い信の狭い真っすぐな道を歩むことにある。福音において神の愛が与えられているからである。

 ひとは誰もがキリストによって二千年前に憐みをかけられている。聖霊はあの出来事が今ここで生きるわれらの「古き人間」(Rom.6:6)の死、「欲と情と共に肉」(Gal.5:24)の死であり「新しい被造物」(2Cor.5:17)の生であると神が看做していることを心の奥底で呻きをもって執成す。神へのアクセスはイエスの愛を介するものとなるとき、超越と内在、彼岸と此岸は媒介され、信仰の抽象性、観念性、思弁性が乗り越えられる。憐みをかけられた者だけが憐れむことをおのれ自身からの解放の喜びとともに学ぶ。ちょうど、「良心・共知」の発動が、「道徳的運」と呼ばれる、ひとがそのもとで育つ環境に影響されるように、「愛」も愛情を注がれ、愛されることを経験しその自覚なしには、また相手方の状況についての知識と識別なしには、発動しないそのような受動の経験と自覚を伴うものである。或るひとが主イエスに生命をかけて愛され、自らの罪赦されたことを自覚しているかの証は、どれだけ隣人を愛することができるかにおいて見いだされる。「この女性の多くの罪は赦されてしまっている、というのも彼女は多く愛したからである」(Luk.7:47)。

 彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から「柔和と低さ」が伝わり、山上の説教を少しずつ生きうるものと「変身させられ」ていくであろう(Rom.12:2)。「憐れむ者は祝福されている。憐れまれるであろうからである。その心によって清らかな者は祝福されている、神を見るであろうからである。平和を造る者は祝福されている、その者たちは神の子と呼ばれるからである」(5:7-8)。彼の軛を担ぎ主と共にペースを合わせ隣を歩みうること、それは端的な「贈りもの」であり、祝福である。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その二十

 録音では、司法、政治、経済等の諸制度と福音の関係を、富の具体的な事例を挙げながら解説しました。山上の説教を福音として読みうるのでなければ、わたしどもはこの相対的な社会において主体的に例えば経済活動に従事することと、神に仕えることとのあいだに秩序を見出しえないことになります。福音により因果応報の相対的な世界、社会生活を秩序づけることができると論じています。次回が「結論」です。2024年3月16日

四・三 善悪因果応報説を乗り越える福音 

 旧約律法の理解として因果応報を前提にすることは、イエス自身が理解する信に基づく正義と緊張におかれる。神の憐みの先行性への信は根源的な双方向性のもとでの受容、応答である。これは神主導の非可逆的な関係であり、対人関係における先行性とは異なる端的な、無比較的、無非量的な憐みの「贈りもの」(Rom.3:24)であり、その応答が受領、承認としての信である。

神の憐みの前提のもとでの八福の結論において「喜べ、大いに喜べ、天における報いが大きい」と語られるとき、比較的かつ相対的な配分的正義ではなく、イエスの自己言及に集中する限り、イエスに従う者への端的な信に基づく正義の次元における神からの祝福が語られている(5:12)。祝福される者たちは比較を絶した善の贈りものを前にして神に賛美を帰しつつも、報いを受けることを自らの功績と唱え、誇ることはないであろう。功績的ではない信に基づく正義がここでは開示されている。われらの罪の贖いは父と子の協同作業であったからである。パウロによれば、「あらゆる者たちは、キリスト・イエスにおける贖いを介してご自身の恩恵により贈りものとして義を受け取る者たち」となった(Rom.3:24)。そこに自らの義を「誇る」者は誰もいない、プレゼントだからである。

 この無償性は単純な善悪因果応報説では決して主張されない。とはいえ、父と子の間で、配分の正義のもとでWin-Winの関係として互恵的に記述することが許容されていよう。「息子よ、よくやった。褒美をあげよう、何が欲しいか」。「父よ、彼らは知らないのです、彼らの罪を赦してやってください」。「それが君の願いか、それでは人類の罪の赦しを君にあげよう」、何かこのような応報において、人類の罪の贖罪をアンセルムスと共に受け取ることが正しいと思われる。その罪の赦しはイエスを介してわれらに贈られる。「悔い改め、福音を信ぜよ」。

 イエスの迫害に付き従える光栄に預かった事実のみで、この言葉「報い」は功績への顧慮を伴わない恩恵として与えられる正義とその果実として理解されうる。加点減点の善悪因果応報の旧約的領野は過ぎ去っている。愛を介して働いている信を生きる者は旧約の古い革袋の業の律法をも満たす者ではあるが、無比較的、端的な善がそこにある。イエスと共なることに人生の一切が秩序づけられる。「誇る者は主において誇れ」、キリストの軛を共に担えることに誇りを見出す(2Cor.10:17)。父と子の自己完結的な正義は人間に対しては純粋に無償の「贈りもの」だからである。

 

四・四 相対的な正義と信による乗り越え 

 このように山上の説教は人類が持ちえた最高の道徳として人類にとって良心となり、告発者となることでもあろう。争いのやまないわれらの歴史は心情倫理と責任倫理をわけて、後者の視点を多くの場合採用し社会の秩序を守る制度を充実させてきた。「裁くな」、「誓うな」は一切の司法制度を不可能にし、「何を食べ、何を飲むか、何を着るか煩うな」は経済や文化活動を停滞させ、「右の頬を打つ者に左を向ける」無抵抗は戦争はもとより正当防衛さえ不可能にするため、個々人の心魂の在り方としては賞賛されるが、行政機関、政治は結果責任のもとに到底山上の説教に与することはできないと主張された(7:1,5:33-37,5:31,5:39)。これら制度化は肉の弱さへの譲歩であると言える。誰もが神の前に生きているなら、山上の説教をそのまま生きていたであろう。

 イエスは「君たちの心が頑ななのでモーセは君たちに君たちの妻を離縁することを許容したのであって、始めからこの通りではなかった」とまたパウロも「君たちの肉の弱さ故に人間的なことを語る」と人間中心的にものごとに対処することを譲歩として認めている(Mat.19:8,Rom.6:19)。人間同士の契約に基づく司法、政治経済、防衛等の社会諸制度は相対的な正義のもとに営まれている(Mat.19:8,Rom.7:24, cf.Mak.10:4)。

 しかし、このような棲み分けは全体として一つのものであるひとの心とその身体を介した営みを理論上そして実際上分断するものであり、心なき制度化、形式化がはびこり、その前提のもとでの業に基づく相対的、比量的正義の追求は人間がそこにおいて最も人間であるその心を苦しめることになる。ひとの良心はそのような棲み分け、二心に満足できず、一切の秩序づけを求める。例えば裁判官が懲役九年であるべきものを八年と判決する場合のように、自ら相対的な判断のもとに審判する時、端的な正義においてある神の前に出ないでよいという免責にはならず、その都度悔い改め、憐みを信じ仰ぐ。この相対的な世界において委ねられている正義はあくまで契約社会のなかでのことであり、神の前においては信に基づく端的な正義がキリストのゆえに無償で与えられる。ただし、現実社会の契約も相互の信に基づくものであることが求められるであろう。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十九

 録音においては、山上の説教を福音として読むことができることによって、いかにイエスとパウロが連続的なものとして捉えることができるかを語っています。「裁き」と「識別」の行為がいかなるものであるか、光の倫理学のシミュレーションのもとに語っています。 2024年3月13日

第四章 山上の説教の倫理学と信による秩序づけ

四・一 善悪因果応報の倫理的教説

黄金律におけるひたすらなる善意の行為原則

 イエスの教えから倫理学を引き出すとすることができるとすれば、それは一切が明らかなところでは、ひとはいかなる法則性のもとに行為を遂行するかそしてその実践的効力をどこに求めているかを明らかにすることである。神の前にも人の前にも普遍妥当する法則があるとすれば、その連続性を保障するものでなければならない。神も同意し人も同意する法則とは光がもたらす透明性が持つ普遍的妥当性ということになろう。これまでの論述は倫理学の第一の特徴である態勢と行為の平行関係は跳ね返りの法則において確認されている。また倫理学の第二の特徴であるロゴスとエルゴンの相補性、認知的徳と人格的徳の共軛も不可欠な前提となる。イエスの天の父はまさにそのような神であったことをこれまで論じたので、これに関しても倫理学の要件を満たしていると言える。第三の特徴である幸福が神的なものに開かれていることは八福で確認した。従って、イエスの福音の宣教における自己言及性とひとのそれへの信による応答を一時的に括弧にいれる限りにおいて、倫理的教説として特徴づけることができまた対話可能なものとなろう。

 憐みの連続性と悪さの不連続性はそれぞれ交差しない形で果実をもたらすことをこれまで確認してきた。律法の純化、先鋭化の試みは善悪因果応報の枠のなかでまとめられている一つの倫理的教説であると言ってよい。神の業の律法における意志・み旨は倫理学的には善悪因果応報の法則のもとに知らされている。イエスはそこから行為の一般原則を導出する。「かくして、君たちは人々が君たちに為してくれるよう欲するならば、そのかぎりのものごとすべてを君たちも彼らにそのように為せ。というのもこれが律法でありまた預言者たちだからである」(Mat.5:12)。ここで「黄金律」と呼ばれる愛敵に至る隣人愛への命令がモーセ律法と預言者が目指していたものに他ならないとされている。この表現は「レビ記」にある隣人愛の命令「汝は汝の隣人を、汝が汝自身を愛するように、愛するであろう」(Lev. 19:18, Gal.5:14)よりも一般的な表現である。これは山上の説教全体に言えることであり、イエスは「罪」や「信仰」そして「悔い改め」等の宗教用語は用いない傾向にあり、その代わりに「過ち」や「求めよ」そして「仲直りせよ」のような表現が用いられている。聴衆たちにわかりやすい日常語を選んだ、或いは道徳的次元を明確にするためであると言える。人々にしてもらいたいことはよくしてくれること、赦してくれること、愛してくれること、なにかそのようなものごとであり、それを先ず君から実行せよという命令である。

 イエスはこの「黄金律」において、聖書の律法と預言者たちは愛することに集中していたことを伝えている。これは神の憐みの先行性を人間同士の交わりに移行させる命令である。まず自分から善意を行動で示そうと励まされる。行為主体の善意の先行性が、善き跳ね返りの生起する必要不可欠な要素である。神がわれらの信による応答を待っているように、人間同士の交わりにおいても善行の先行性が信頼関係を生み、豊かな応答の好循環が生起する。黄金律は善き行為の始点たれという励ましである。他方、疑心暗鬼による負のスパイラルは恐れに起因することが多い。喧嘩や戦争の報復合戦、応酬は対人間の否定的な反射性の好事例である。「愛は恐れを取り除く」という仕方で善意によって、負の螺旋下降をブロックする黄金律は合理的なものとして支持されよう(1John.4:18)。

 ただし、黄金律は神の憐みの先行性とそれへの信なしには人間中心的な功利主義的にも捉えられがちであろうが、これも認知的なものと人格的なものの共軛によりブロックすることができる。光の透明性の倫理学において次世代AIであれ一切を正確に知り審判する叡知体を想定することは、認知的次元だけではなく人格的次元をも要求せずには双方の共軛が成立せず、限りなく人格的神の要請に近づくことになる。

 憐みの悪人の交差なき善悪因果応報の法則性の根拠は一切を知る天の父が公平に審判することに見られる。「もし君たちが人々に彼らの過ちを赦すなら、君たちの天の父も君たちにも赦すであろう」(6:14)。「裁くな、裁かれないためである」(7:1)。まず、君自身からしてもらいたいと望んでいるものごとを、人々に行使せよと命じられる。愛敵にまで純化された善悪因果応報が妥当する限り、黄金律は信じる者にも信じない者にも普遍的に妥当する道徳法則となる。

 イエスはモーセ律法の純化により自己への厳格な適用と隣人への寛大な憐みの適用こそ神のみ旨であると言う。愛敵即無抵抗即ち「悪人には手向かうな」(5:39)などの厳しい教えの自己への適用において自らの偽りが暴かれるが、悔い改めの信により克服し隣人愛に向かう。他方、隣人への対応において「裁くな」、「赦せ」と端的な憐みが命じられる。ルカの平野の説教において神の憐み深さは量り枡の譬えに見られる。「君たちの天の父が憐み深くあるように、憐み深くあれ。君たちはひとを裁くな、そして裁かれないであろう。ひとを咎めるな、そして咎められないであろう。赦してやれ、そして赦されるであろう。与えよ、そして君たちにも与えられるであろう。人々は [穀物を]押込み、揺すり込み、溢れている良い量り(metron kalon)を君たちの懐に入れてくれることだろう。というのも君たちが量るその量りで君たちに量り返されるからである」(Luk.6:36-38)。隣人への憐みは神の憐みにより基礎づけられ、イエスのその実践的効力ある行為原則は信である。光の倫理学においては善悪因果応報への信が機能する。

 イエスは裁くなという命令の理由に「君が量るその量りにより量り返されるからである」と言う。これは善悪因果応報に基づく跳ね返りの法則の一般的表現であり、憐みを量りにすれば、神から憐みをかけられる。正義を量りにするならば、神から正義によって量られる。キリストを量りにするなら、キリストによって量られる。従って、先行行為主体が行為を選択するその領域において、応答を受け取る、仕返しをされるということである。「悪行の報いは悪行そのものである」(アウグスティヌス)或いは悪人は「自ら掘った穴に陥る」(Ps.7:15)と語られるように、悪の行為選択はまさにその心的態勢さらにその実害において罰を受けている(cf.Rom.1:18-32)。イエスの厳しい現実認識によれば、否定的な言葉や内面の悪意でさえ滅びに定められている。殺人をめぐる先鋭化においては「しかし、わたしは言う、「自分のきょうだいに怒る者はすべて審きに服するであろう」。誰であれきょうだいに「馬鹿」と言う者は法廷に服するであろう、「鈍重」と言う者は、地獄(ゲヘナ)の火に服するであろう」(5:22)。またこう言われる、「かくして、これらのわが言葉を聞きそしてこれらを行う限りの者は皆、自分の家を岩のうえに建てた賢い者に似せられるであろう」(7:24)。実践を伴わない者はものごとがよく見えていない愚か者であり、最悪滅びに定められる。業に応じた公正な審判がくだされる。

 悪を抑止する業の律法のもとでは正しいしかし相対的な審判が遂行され、働きに応じて相応しい果実を得ることになるであろう。「目には目を」の業の律法のモーセに対する啓示は相対的な跳ね返りの法則の啓示であったと言うことができよう。光の透明性の倫理学においては、集積したデータのなかではイエスの審判は最も厳しいものと判定するであろう。しかし、神の完全性、天国の律法の法則を知っていれば、同意するであろう、そのようなことがらである。一切が明らかなところでは、憎悪も実際の殺人も同罪とされる文脈はありうる。後に実際殺人することも見抜いていようし、憎悪により多くの悪を周囲にまき散らすことも計測されるであろう。倫理的教説として、いずれが優れているかを論じる段になると、やはり一切を知っていることそして人格との共軛が成立していることが、鍵となるであろう。そのなかにあって、肯定的な黄金律を実践に移すことには同意が成立しよう、その普遍妥当する法則性への信のもとに。

 

四・二 裁きから愛の識別へ 

 イエスは自らを優越した位置におく「裁く」ことは神のみ旨でないと言う。それは愛を説く黄金律にも反する。それは最初の人間が「善悪を知る」木の実を食べて以来、人間が神に背き生の主人公となっている象徴として挙げることができよう。「ひとを裁くな、裁かれないためである。というのも君たちが裁くその裁きにおいて君たちは裁き返され、君たちが量るその量りにおいて君たちにも量り与えられるからである。なぜ君はきょうだいの目にある塵を見るが、自分の目にある梁に気づかないのか。或いはどうしてきょうだいに向かって「君の目から塵を取らせてくれ」と言うのか、見よ、自分の目に梁があるではないか。偽善者、まず自分の目から梁を取り除け、そのとき君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになるであろう。神聖なものを犬にやってはいけない、君たちの真珠を豚に投げてやってはいけない[むしろ飼料を与えよ]、豚たちがそれらを脚で踏みつけ、向き直って君たちに突進してくることのないように(7:1-6)。

 ここで「裁く(krinein)」とは、ちょうど羊飼いが羊と山羊を「えり分ける」ように、究極的には最後の審判において栄光の主が「栄光の裁きの座」につき、義人と罪人を「右」と「左」に分ける、そのようなことがらに向かう過程である(25:31-33)。ひとは神の位置或いは一切が透明である叡知体の位置を占めえない。貪欲や優越感はその跳ね返りを報いとして受ける。パウロは途上の人間が「罪に定める(katakrinein)」時、それは自らに跳ね返ると言う。「すべて裁いている君、ひとよ、君には弁解の余地がない。なぜなら、君は他人を裁くそのことがらにおいて、君自身を罪に定めているからである。というのも、君、裁く者は同じことを行っているからである」(Rom.2:1)。裁き合うとき双方とも同じ「業の律法」のもとにあり、赦しではなく優越者として罪に定めあっている。「裁くな」においてイエスはモーセの業のそれ自身における律法の適用の否定にまで至っている。これは神において信の律法による業の律法の乗り越えを意味していよう(cf.Rom.7:4,8:2,Gal.2:19「[信の]律法により[業の]律法に死んだ」)。透明な倫理学においては、裁きにより優越を示す悪しき動機付けはその悪しき果実を得ると端的に語られる。

 「裁き」が「梁」や「塵」等様々なレヴェルで遂行されているように、誰もがそれにより隣人の行為や人格を認識し判断する規準として、ひとは普遍的に何等かの量りを持つ。ここでは「裁き」と異なる「識別すること(dokimazein)」(cf.Rom.14:22)の重要性が説かれ、「君はきょうだいの目の塵を取り除くべくはっきり見るようになる」そのような愛が両者を識別、判別する。豚には真珠ではなくトウモロコシを与えることが最善の行為選択肢である。ひとは誰もが自らの認識規準のもとでひとや出来事を識別、判断せざるをえないが、それは神のみ旨に即して憐みを規準にして遂行せよと命じられる。そのとき、ひとの目から塵を取ってやることができ、歴史に肯定的なものを遺すことになる。パウロも言う、「祝福されている、自ら識別するものごとにおいて、自らを審判しない者」(Rom.14:22)。この意味で黄金律は司法制度を前提にしている従来の人間中心的な倫理学に一つのレッスンを与えているとも言えよう。

 愛は信義の果実である。神の愛への信に基づき罪赦され、その義の証は愛しうることに見られるがゆえに、歯を食いしばって敵をも愛する。キリストはわれらが滅びを望むそのひとのために死んだのである(Rom.14:15)。キリストは自らの敵のために死んだことにより、罪とその値である死を滅ぼした(Rom.8:1-3)。ここに信から義から愛への一本道が見いだされる。その信頼とは敵もキリストにあって神に愛されていることの信である。神の愛の先行性が恐れに基づく負のスパイラルをブロックする (Rom.12:14-21)。一切を正確に知りしかも憐み深く公正な神への信が悪に対して善によって打ち勝つことを可能にする。これがイエスの神のもとでの倫理学の実践的効力である。この信の実践的効力に対応するものは人間中心的な倫理学においてはやはり交差なき因果応報を肝に銘じることであろう。カントの道徳法則の普遍妥当性に基づく断言命令もこれに基礎づけられる。先に幸福が自らの力能のうちにないことを確認したが、やはり、倫理学は信に開かれていると思われる。人格なき普遍妥当する法則はどれだけの実践的効力を持つか、山上の説教の側から問われよう。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十八

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十八

 録音では、「木は実によって知られる」をめぐるこれまでの神学者たちの困惑に応答を試みました。イエスは道徳的次元に屹立しています。この善悪因果応報の譬えは倫理的次元のみにおいて理解されるものです。それ故にこそ、聖霊の媒介を語らない山上の説教において、福音と倫理はイエスの語りを介して適切に秩序づけられています。2024年3月12日

 第四の倫理学的解釈

 これらの聖書学的、神学的理解に対して、道徳的理解とは、光の透明性のなかでは、普遍的であり、この事例は根源的な道徳法則の例証として挙げられており、文字通り、「善い木は善い果実を実らし、悪い木は悪い果実を実らす」のであり、各人の心魂の態勢に応じて、行為は善くも悪くもなるということを聴衆に教えている。イチジクはイチジクを生むこの自然の秩序正しい複製機構は生命を預かる神からの善人にも悪人にも注がれる憐みである。これは(2)の自然事象を介した恩恵の注ぎである。同時に、これは(3)不十全で悪しき者には善悪因果応報のはねかえりの法則を教えて、警告している。黄金律のもとに生きるように促される。このいずれでも生きうる者に、種蒔きの譬えにあるように、自らが善き地であると憐みを信じる者は数十倍の実りをもたらすであろうと励まされている。(1)イエスの自己言及を信じるかという切迫性のもとに立たされている。

 神学的には神はモーセ律法、業の律法の啓示において、自らの審判規準を知らしめており、イエスはそれを純化したうえで神のみ旨として教えている。「「主よ、主よ」とわたしに言う者がすべて天の国に入れていただくのではない、天にいますわが父のみ旨を行う者が入れていただくことになるであろう」(7:21)。従って、イエスはこの譬えを割り引いて或いは第三者をもちだして、つまり原因だけや結果だけそして聖霊の介入による双方の媒介という解釈の手前で、この心魂の態勢と行為の関係の道徳法則を教え、聴衆の良心に委ねている。聴衆はここで神のみ旨がいかなるものであるか聞かされたこととなり、「まず、御国とご自身の義を求めよ」が人間にとって根源的な行為であることの共知の種が蒔かれたと言える。

 

プロテスタント的理解とその反論

 E.シュヴァイツァーは常に聖霊の媒介の働きを前提にする者に対して反語的に自動機械ではないかと問う。「善い人間が必然的に、自動的に善い実をもたらすということを、或いは悪い人間がそもそも善い人間になることができないということを意味していないのだろうか」[i]。第四の立場からすれば、責任ある自由のもとにある中立的道徳的存在者であるひとは自動的にいずれかにみちびかれているのではないというものとなる。ただし、態勢と実践の並行性は否定されてはいない。むしろそれは創造の持つ秩序正しさの祝福である。

 シュヴァイツァーは「それではわれわれには、ルター派の正統主義と共に、山上の説教は、―それを満たすことができないのであるから―審きであって、聴衆にその罪を示し、その結果イエスの十字架の死が罪人に問題の解決をもたらすように仕向けている、と理解する道しか残っていない、ということなのであろうか」と問う。イエスは山上の説教において急進化させ内面化させてはいるがモーセ律法の枠のなかに留まり、山上の説教は福音に追いやる機能を担っていると主張される。モーセ律法と福音のあいだの緊張関係が強調されるが、山上の説教を語るイエス自身はリアルタイムにおいて福音を実現しつつあり、野の百合空の鳥を愛で、天の父の子となるべく生きることに関して律法と福音の間に律法の業と福音への信仰のあいだに分断を見出してはいない。「まず、御国とご自身の義を求めよ」と神との正しい関係の構築のもとにリアルタイムの媒介行為を遂行している。

 また聖霊論的解釈、ルター主義的解釈においては人間の責任ある自由が全く問われないことになる危惧が生じるとして、ルツは言う。「このテーゼに対しては繰り返し繰り返し、パウロの回心やダビデの姦淫が異議に持ち出された。そして最終的には、その解決は人間はbona voluntas(善い意志)を持っている限り、善い木なのである、というものであった。ルターは善い木を信仰であるとした」(前掲書p.587)。ルター的な解決は心魂の根底に信仰があるか否か、その善い意志だけが問われており、その信仰はそれ自身として善い木として自動的に即ち聖霊の助けのもとに善い果実を生み出すと理解されよう。それゆえに第一の立場は第三の立場に吸収され「全体的人間」が語られうる。しかし、はたして人間を常に聖霊の援けのもとに理解し、人間の身体を聖霊が「自動的に」また機械的に注がれる管のように理解することは人間論として正しいのかと問われることになる。木とその果実の譬えは、上で指摘した対人論法のもとで語られており即ちモーセ律法の枠のなか或いはより根源的には自然法則の枠の中で語られており、その前提のもとにイエスはリアルタイムに福音の説教と権威ある言語行為という媒介行為を今・ここで遂行している。それ故に原因と結果の分断にも聖霊による媒介にも与せず割引なしに語られている。この自己限定のもとにある説教においては聖霊の媒介を要求すること、第三のものをもちこんで丸く収めることはできない。イエス自身が目の前にいるのであるから、その必要はない。「祝福されている、君たちの目と耳は」(Mat.13:17)。

  

山上の説教が語られた文脈―生命の迸り―

 ひとが信じるとき、今・ここで神に愛されていることを信じることであるから、聖霊が執り成していることをも信じている。カルヴァンは「神の前とひとの前を分けるな、それはキリストを引き裂くことだ」と言う[ii]。その意味で信じることの内容からして、今・ここで信じるさい、聖霊が共に呻きをもって執成しているという信はその内容として正しいものである。

 しかしながら、イエス自身は「イスラエルの失われた羊にのみ遣わされている」として旧約の伝統のなかに自覚的に留まったが、彼自身が生命に溢れる言わば新しい葡萄酒であったために、古い革袋を破ってしまった。「新しい酒を古い革袋に注ぐこともしない。もしそうするなら、革袋は裂けてそして酒は迸りでてそして革袋は破れる。人々は新しい酒を新しい革袋に注ぐ、そして双方とも保たれる」(Mat.9:17)。われらはここで生身のイエスは、一挙手一投足において神の国を持ち運びつつも、十字架と復活への狭くまっすぐな道への歩みの途上であることに思いをいたさねばならない。

 福音書記者マタイは、たとえその生涯を回顧する仕方で、またパウロの神学を前提にした仕方でイエスの死後執筆したものであるにしても、その途上の彼の説教を報告している。マタイはイエスがそのようなリアルタイムの状況において旧約の伝統を極性化しつつ、メシヤとして内側から破っているその現場をその都度報告している。イエスは「人々がアザミから葡萄を茨からイチジクをまさか収穫することはない」と自然が持つ複製機構の秩序正しさに見られる神の憐みを語るが、自らがその心と身体において神の憐みを実現するその一挙手一投足を生きている。イエスはこの信の従順を成し遂げる途上において山上の説教を語った。この現場性、途上性を忘れてはならない。もし十字架から降りてきてしまったなら、神はナザレのイエスにおいて信の従順を完遂したとは看做さず、信の律法の媒介者とはされなかったかもしれない、そのような緊張のなかでイエスは一挙手一投足を歴史に刻んでいた。その現場の切迫性のなかで聞かねばならない。これを正面から引き受けるとき、聴衆はイエスについていく者となる。その心の内側でイエスに現れた神の憐みを承認し、受領している。それを「信仰」と呼ぶ。

 かくして、イエスは一方では道徳的次元ではそのまま「跳ね返りの法則」とでも言うべき、態勢と行為の相即性が神のみ旨であることを告げ、神の前のことがらとしてその道徳的次元の手前で神との正しい関係を構築するよう招く。ここに、パウロの言う、「業の律法」と「信の律法」の神の二種類の律法が秩序づけられる現場にわれらは自ら証人として立っていることを見出す。なお、跳ね返りの規準は一層シャープになっており、善悪因果応報の「善」の実質的概念はイエスによる律法の純化と遂行により、究極的には「愛敵」に変質している。

 イエスは山上の説教の純化された道徳を割り引くことなく提示しつつ、その遂行する手前で或いはその遂行のために、まず神を仰ぎ御国と神との正しい関係を求めることこそ第一になすべきこととして語っている。自らの道徳的状態の自省ではなく、神を仰ぎ見ること、即ち信じることが最も大切なことであるとされる。なぜなら神は憐み深い方だからである。これによりパリサイ人の義に優る義をえることができ、敵をも愛することができるようになると、山上の説教は展開されている。

 イエスの言葉は生命を伴いそしてそれ故に堅固であり「権威あるもの」であった。ただしイエス自身はたとえ生命に溢れてこの言葉を発したとしても、道徳的次元のみにおいて言葉だけで理解されるそのような議論を展開しており、道徳的良心において理解されうるそのような議論を展開している。

 自ら内省するとき、山上の説教における律法は単にユダヤ人だけに適用されるものではなく、人類の誰かにより語られねばならなかったその究極の語りであることにひとは納得するであろう。それは人類すべてに妥当する究極の道徳であり、言葉の力によってのみ掛け値なしに展開される。このことの故に、或る人々にはこの山上の説教がある限り、人類に絶望することはないと思われることであろう。少なくとも人類には山上の説教を生き抜いた一つの実例が与えられている。偽り、フェイクで満ちており、何も確かなものがないそのような時代において、このように人間の究極が道徳的次元のみにおいて語られそして一つの事例があるということ、ただその歴史的事実を心にとめる。これを「十字架への信の道と道徳の今・ここの共存」と呼ぶが、これは何らか他の三つ、心情倫理的自己満足、律法主義的解釈、聖霊論的解釈即ちルター主義的解釈を乗り越える言葉と行いの包括的な理解であると思われる。彼は人間とは何者であるかを端的に明らかにしている。

[i] E.シュヴァイツァー、NTD 新約聖書註解『マタイ福音書』 p.257佐竹明訳 (NTD刊行会 1978)。

[ii] 『信の哲学』上巻p.534参照。カルヴァンRom.8:9注解。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十七

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音とりんりその十七

録音においては、福音と倫理の関係をAIの現在地点の紹介とともに秩序づけています。13年前の郷里宮城における3.11の日を回想しつつ。2024年3月11日

三・三・五 道徳的次元の内破そして信仰への招き 

 山上の説教は人類の誰かが言わねばならなかった、ひととしての道徳上のまさにその究極の在り方を伝える。これは神のみ旨の表明であるが、それを一旦括弧にいれて一切が明らかであるところでは、このような完全な道徳を提示することは十分にありうることだと想定することができる。イエスは自らの言行一致がもたらす「権威」のもとに山上で言葉の力だけに頼り空手で群衆の前に立つ。彼は善悪、正邪を誰もが判断して生きている道徳次元に踏みとどまり、その土俵のうえに立ち、言葉の力により各人の良心に訴えて「偽善」や「貪欲」を指摘し道徳的次元をその内側から破り出て、「まず御国とご自身の義を求めよ」と信仰に招いている(5:23,6:33,16,7:5,16)。福音の確立のただなかで、「一点一画」とも廃棄されない愛に収斂する業の律法を正面からそれ自身として引き受けている。

 この土俵の共有という対人論法において一般的な人生の理解として前提にされているのは、まずひとは生命に至る狭い門から入るか滅びに至る広い門にはいるか二者択一を迫られている中立的な道徳的存在者である。「狭い門から入れ」という促しの背後に、個々人は生命と滅び双方の可能性のもとにある責任ある行為主体である。「滅びに至る」門は広く、「生命に至る門は狭く」その道も細い。各人究極の二者択一のもとに自らの道を選択する(7:13-14)。

 そのことが含意していることとして、ひとは常に善悪を判断する道徳的存在者だということである。そしてそれぞれの善きまたは悪しき心の態勢からそれに応じた行為が生み出されて、悪しき心から善き行為が生まれることはない。双方は交差しない。これはアリストテレスの行為やパトスが態勢の現れであるという態勢論の議論のなかで、イエスも同意することを引用により確認した。ここではこう語られる、「偽預言者に警戒せよ。彼らは羊の皮を身に着けて君たちのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。君たちは彼らの果実から彼ら自身を認識することになるであろう。人々がアザミから葡萄を茨(いばら)からイチジクをまさか収穫することはない。このようにすべての善い木が善い果実を生み出すように、腐った木は悪い果実を生み出す。善い木は悪い果実を生み出すことはできず、また腐った木は善い果実を生み出すことができない。善い果実を生み出さないあらゆる木々は切り倒されそして火に投げ入れられる。かくして少なくとも彼らの果実から君たちは彼ら自身を知ることになるであろう」(7:15-20)。

 シャロンの平野にはとき色の杏子や桃の花が咲き、種を落としまた同じ種の個体が芽生える。この「最も秩序正しい」自然の複製機構の安定性の類比により、イエスは、葡萄は葡萄を生む、ように、善い木は善い実を結ぶと言う。否定的なものはその反対語により理解される。これら善い木がもたらす善い果実と悪い木がもたらす悪い果実は交わることがない。「わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は、皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている」(7:26)。岩盤の上に家を建てる者と砂上に家を建てる者の賢さと愚かさの二分のように、道徳的責任のもとに二者択一のもとにある人はいずれかを選択するとき、交差の可能性、地獄への道から天国への道の転換の可能性は考慮されていない。

 

三・三・六 木とその果実の三種類の解釈 

 聖書学的、神学的にはこの事例は大別して三つの解釈を引き起こしてきた。一つは従来「心情倫理」と言われたもので、原因となる心の在り方がよければ、ちょうど善い木であっても嵐や土壌汚染で善い果実を結ばないことがあるように、善い働きがなかったとしてもやむを得ず、善意志だけが神に嘉みされるという立場である。

 もう一つは「責任倫理」と言えるもので、結果だけがすべてであり、善い果実を実らすもののみが善い木であると神は看做しているので、心の在り方がどのようなものであろうと、果実により審判されるという立場である。第一の立場は自ら自己満足のうちに所謂心情倫理の次元に留まるか、誰も山上の説教を生き抜くことはできず、その律法成就の不可能性を通じて信仰に招くかのいずれかとなる。後者はルター主義的解釈或いは神頼みの信に導く解釈と言える。第二の結果責任が問われているという立場は一つには道徳的な次元で自らの力で善い実を結ばないものは火で焼かれてしまう、立派な行為をうみだす者だけが「天の父の子」となるという理解が展開されている。U.Luzは神についてこう語っている、「必要な場合には業なくしても救う者なのではない。そうではなくて、キリストは[業の律法の]義を行う者に生命に至る道を開くのである」[i]。これを律法主義的解釈と呼ぶ。

 もう一つは原因と結果の「全体」が神に問われており、双方を媒介するものがある限り、善い果実をもたらすと神が看做しており、この譬えはそれを結果である果実の側から述べているという立場である。第三の立場について、J.Schniewindは「比喩的にではなく―全体的人間とその業とは一つのものであり、一つの認識である」と言う[ii]。これは原因と結果を媒介する聖霊の介在のもとに個々人を全体として捉え、山上の説教はキリストの憐みにより満たしうるとする理解である。これを聖霊論的解釈と呼ぶ。

[i] U.ルツ『EKK新約聖書註解I/1』 p.594小川陽訳(教文館 2009)。

[ii][ii]J. シュニーヴィントNTD 新約聖書註解別巻『マタイ福音書』 p.211量義治訳(NTD刊行会 1980)。シュニーヴィントの「全体的人間」の提案はルター主義的解釈である。信じることは信じせしめられることであり、常に聖霊の媒介があると言う立場である。パウロはエルゴン(働き)上同意するであろうが、ロゴス上神の前とひとの前を分けることもあり、ロゴス上聖霊の媒介への言及なしに「神の知恵」(1Cor.2:7)を語り、「君たちの肉の弱さの故に人間的なことを語る」(Rom.6:19)人間中心的に語ることもある。『信の哲学』上巻第三章、第五、六節pp.542-565参照。


Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十六

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十六

本日の録音は「明日のことを思い煩うな」という山上の説教の一つの山場です。生命は主のものであり、魂は食物がそれのためにあるそれとしての目的であり、食物のために生きているわけではないことが語られています。天に宝を積むことが説得的に展開されています。 2024年3月10日

三・三・四生命の主である神への信頼による思い煩いの克服

  イエスはその言葉と働きにおいて福音を持ち運びながら業の律法を福音に秩序づけている。イエスは父なる神の意志、律法を一つの体系のなかで捉え、軽重を明確に判別している。「ああ、なんということだ、君たち、律法学者そしてパリサイ人、偽善者たち、薄荷や、いのんど、クミン、十分の一税を奉納するが、律法のより重要なもの、公正なさばきそして憐みそして信を蔑(ないがし)ろにしている」(Mat.23:23)。彼はここで正義と憐みそして信を律法のなかで重要な戒めとして位置づけた。イエスは義と愛と信これら三つのなかで、この途上の生においてはまみえることのできない神に向かう根源的な心魂の態勢である信を基礎にして愛と義の両立に向かった。「君たちの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:11)。

 各人にとって求めるべき善きものとは神ご自身であり、その最も善きものに他の一切の善きものが秩序づけられる。「まず御国とご自身の義を求めよ、そしてこれらすべて[衣食住等]は君たちに加えて与えられるであろう。明日のことは思い煩うな、明日は自ら煩うであろう。その日の悪しきものごとはその日で十分である」(6:33-34)。イエスは「業の律法」と「信の律法」をパウロのように言葉として分けることはなかったが、律法の遵守は信の従順により遂行され一切の営みは愛に収斂している。そこでは、律法がそして人生全体が新たな光のもとに捉えなおされるであろう。それが「まず、御国とご自身の義を求めよ」における、「まず」がもたらす転換である。神との正しい関係をまず求めよ。

 この転換をもたらすものとは神が生命の主人であるというイエスの認識である。生命は神のことがら・マターである。「わたしは裸で母の胎をでた。また裸で帰ろう。主与え、主取りたまう」(Job.1:20)。「すべての生命はわたし[神]のものである。父の生命も子供の生命も同様にわたしのものである。罪を犯した者、その者は死ぬ」(Ezek.18:3,cf.Jer.21:8,Eccl.3:1-2)。イエスは生命のことで煩う者を「信小さき者たちよ」と叱責する。かくして、「まず、御国とご自身の義を求めよ」が導出される。

 天の父が憐みをかけていることは知らされており、イエスは聴衆に何よりも「天国に宝を積む」その心の方向において憐みへの信仰を促す。神は憐み深く、道徳的態勢(心の実力、構)以前に「善人にも悪人にも」(5:45)等しく雨を降らせ、太陽を昇らせている。「明日のことまで思い煩うな」(6:34)と、毎日、野の百合空の鳥を養ってくださる天の父を仰いで、子が父にパンをねだり求めるように信頼せよと教える。「君たちの誰がパンを欲しがる自分の子供に石を与えるであろうか」(7:9)。かくして神の憐みへの信仰こそ、神との正しい関係であることをイエスは教えている。これは福音の宣教に他ならない。「福音」とはパウロによれば「信じる者に救いをもたらす神の力能」である(Rom.1:16)。

 イエスもパウロも「霊」、「魂」そして「心」を分けて使うが、「魂」は生命原理として心的事象の基礎にあり、そのうえで「心」が意識事象など心的行為を遂行する。イエスはこう語る。「それ故に、わたしは君たちに言う、君たち[心]は何を食べ、何を飲もうか、君たちのその魂[生命原理]について思い煩うな、また君たちは何を着ようか君たちの身体について思い煩うな。魂[生命原理]は糧より一層大切なものであり、身体は衣服より一層大切なものではないか」(Mat.6:25,cf.10:28)。ここでイエスの呼びかけ「君たち」は生きていて触れうる身体即ち「統合体」とその行為主体である「心」を二重に指示している。例えば、「彼は優しい」という発話において、生きている彼とその行為主体である彼の心双方に指示が届いており、「彼の心は優しい」或いは「彼は優しい心の持ち主だ」と同値であり、代替可能である。「ひと」即ちその主体である心と生命の源である魂の関係について、イエスはこうも言う、「ひと[心]が全世界を不当に手にいれることそして自らの魂[生命原理]が損失を蒙ること、そこに何の利益があるのか。というのも、ひと[心]は自らの魂の代価として何を[その奪った世界のなかから]与えるのか」(Mat.16:26)。ここでも「ひと」によりその心に指示が届いている。生命の源である魂が不正により損失を蒙るなら、心が世界を不当に支配したとして、心は魂の代価をその何によって償うのか。

 イエスはここで君たちの生命の源である魂は食物より一層大切なものである、つまり君たちの魂は食物がそれのためにあるところのその目的であり、君たちの心はその生命の源である魂のほうこそケアすると語り直すことができる。そのうえで、生命に関わる衣食住のことで煩うな、それらは生命原理である魂のためにあるが、生命を煩いにより「わずかでも延ばすこと」はできないからであるとされる。神が生命の支配者である。「君たちのうち誰が思い煩いにより、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つか注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、君たちに言っておく、栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、君たちにはなおさらのことではないか、信小さき者たちよ」(6:26-30)。

 同様に誓うことは自惚れであるとして、一切誓うな、その理由として「髪の毛一本すら、白くも黒くもできないからである」と語られる(5:36)。確かにわれわれは自然上髪の毛の色を変えることはできない。自然法則に基づいて、生きざるをえないように、神の前の法則を正しく知る必要がある。神の前では誓いは無用であり、「然り、然り」「否、否」の応答で足りる。われわれの人生は一切神の配慮のもとにある。信仰のみがその神との正しい関係を構築する、とイエスは語る。

 天と地はこのみ旨により、法則的に秩序づけられており、人間にとっての本来性は信仰により父との正しい関係を形成することに成り立つ。この「求めよ」は善いものをくださる方に信頼し、「信じなさい」の平易な言い換えである。「君たち求めなさい、そして与えられるであろう、探しなさい、そして見出だすであろう、叩きなさい、そしてそれは君たちに開かれるであろう。誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。君たちの誰がパンを欲しがるおのが子に石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように君たちは悪い者でありながらも、自分の子には良いものを与えることを知っている。君たちの天の父はご自身を求める者に善いものをくださるであろう」(7:7-8,11)。この現在形による命令と未来形さらに現在形による応答には、父の憐みの現前が前提されており、イエスは八福と同様に確信のもとに語ることができる。何を着ようか、食べようか、生活の煩いの前に、「まず」、神との正しい関係を持つよう求めなさい。そして神はアブラハム、イサク、ヤコブらをその信仰によって義としたように、義としてくださるであろう(cf.8:10-11,Heb.ch.11)。信に基づく義により律法の遵守そして生活は秩序づけられる。彼はモーセ律法のただなかで、「まず」により双方の秩序づけをリアルタイムに企てている。この言葉はリアルタイムの媒介行為でもあるであろう、彼が神に嘉みされ遣わされている限りにおいて。言ってみれば、十字架への途上において彼は神の国を今・ここで持ち運んでいた、罪がなかったからである。

 このイエスが置かれた状況を見誤るとき、福音と律法の判別というできあがった一つのキリスト教神学の視点、枠組みから山上の説教を解釈してしまう。彼は神の憐みをその信により、受け止め伝え、愛敵において神の完全性を生きつつある。「この杯は君たちのために流されるわが血における新しい契約である」(Luk.22:20)。無償の恩恵である福音は新しい契約として旧約を適切に秩序づけるべく人類に与えられている。イエスが信の律法のもとに福音を成就し、純化された律法を愛に収斂させつつ生きており、そして生き抜いたことにより、われらも律法を満たす道を知らされた。

  われらがイエスの言葉と働きによる彼の使命と愛の知識を得るにいたるとき、そのとき厳しい律法が福音に包摂されたと言うことができる。そこでは山上の説教は単に言葉ではない。イエスにより満たされた言葉である。それは信そして愛についてのどこまでも人格的な今・ここの協同の知識・良心である。彼はその共知を求めつつ、聴衆を導き、言葉と働きにおいてリアルタイムに福音を実現していった。かつて敵であったわれらの罪を赦す愛を成就したその人との共知においてわれらの良心は宥められ、その心によって清き者となり平和を造る者となる。

かくして終末まで律法の一点一画たりとも廃棄されないとイエスが自信をもって語りうるのは、彼が信に基づく正義を実現しつつあるなかで、愛を生み出す力強い信を抱き、愛において神の国を実践していたからに他ならない。ここでも「律法」は彼のもとで新たに理解され、自ら信のもとに満たしておりそして生涯通じて満たし抜こうとしている神の意志として理解されねばならない。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十五

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十五

録音ではイエスの現場性すなわちユダヤ教の伝統を引き受けながら彼の生命がほとばしりで古い革袋を破る新約の喜びの現場性をつかむことの重要性を語りました。2024年3月9日 

警告

 イエスは各人の良心に訴えつつモーセ律法の急進的な理解を通じて聴衆の一般的な自己理解を偽善として摘出し、道徳的次元を内側から破り信に招く。

 この説教はその道徳性の根拠に「君たちの天の父が完全であるように、君たちは完全であることになろう」が高い理想として掲げられる。それ故に勢い厳しい言葉が連続的に繰り出されている。「もし右手が君を躓かせるなら、切り取って捨ててしまえ、身体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである」(Mat.5:29-30)。ここで最後の審判における全身の滅びを回避するものとして途上における身体の躓かせる部位の損失が推奨されている。「躓き」は自らないし隣人を転倒させ前進を阻む障害物である。ひとは自らの心魂がいかなる態勢にあるか自覚することは難しいが、光が心の内面を照らすとき、自らの前進をブロックする頑なものの存在に気づくことがある。何らか最後の審判に至る途上の部分的審判を経験するとき、躓きを取り除き或いは方向転換し最後の審判を避ける肯定的な前進に向かう。そのとき懐疑は喜ばしい探求に代わる。肉を抱える限り、再び躓き懐疑に襲われても、探求の感覚を思い出し再び立ち上がる。

 躓きを置く者は憐みをかける者との対極に位置する。この直截さは憐みの肯定的影響力とその対比にある躓きの否定的影響力が時系列の連続性において交わらない二つの生の原理として地上の生と来世が捉えられていることを示している。交わることのない二つの道がある限り、否定の道から肯定の道への移行はあるとすれば信仰により飛び越えねばならない。これはアブラハムの信仰の先駆に見られるように、「働きのない者であり、不敬虔な者を義とする方を信じる者には、彼の信仰が義と認定される」、その信に基づく義は旧新約双方の基礎にある(Rom.4:5)。

 

三・三・三 リアルタイムの説教とリアルタイムの媒介行為

  山上の説教をそれ自身として理解しようとするとき、イエスは道徳的次元を正面から引き受けそこに留まっていることに気づく。律法の「一点一画」とも疎かにされない。彼はそこでは「聖霊」への言及もなさず、また所謂奇跡をも遂行することはない。「信わずかな者たちよ」(6:30)という叱責に見られるようにアブラハムの子孫たちに信仰への招きは当然なされてはいるが、「信仰」や「罪」という語句もイエスにより語られることはない。道徳的次元に踏みとどまり、屹立しているように思われる。「求めよ」は実際に神へのねだりとして信頼を前提にしてはいるが、ことさら「信ぜよ」とは語られない。純化された律法の文字通りの遂行にこそ神のみ旨のあることに、この説教の主眼がおかれている。そのことにより文字通りの先鋭化された律法の遂行は低く見積もられること、軽視されることを拒否している。このことはひとつには旧約の伝統のもとにある聴衆に躓きを与えないように、彼らの立場を正面から引き受けたことを含意しているが、しかし、これは何よりも神がモーセと民に業の律法を与えた時の神のみ旨だからである。十戒は「君たちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである」(Exod.20:20)。そこでの行為は偶像を拝むー拝まない、姦淫するー姦淫しない、貪るー貪らない等二者択一であり、一方を選択するとき義であり、他方は罪とされ、「わたしを愛し、戒めを守る者には幾千代にも及ぶ慈しみを与え」、否む者には「父祖の罪を子孫に三、四代に問う」相応の報いがある。モーセ律法を介して知らされている神のみ旨は罪を犯さないようにする人生の規範、道徳訓である。これらは外的に観察可能な規範である。これは行為選択への加点と減点による裁きであり、その意味で人間にも義と罪は相対的に判別可能なものとなる。

 しかしながら、一点一画とも疎かにされないはずの律法が偽善により汚されてしまっているという現実がある。それ故にイエスは律法遵守の新しい道を示そうとしている。イエスは旧約の枠組みにおいて自らを「預言者」(5:12)として位置付け、天の父の認知的、人格的完全性に基づく憐みを賛美し、愛敵に至る道徳的完全性を命じている。この厳しい律法はイエスの言葉と働き故に新たな光のもとに理解され、何らかの仕方で実現可能なものとされているに相違ない。ナザレのイエスは揺るぎのない仕方で、文字通りのことを意味しつつ、基本的に実行可能なものとして語り、自らそれを生き抜いたことが報告されている。さもなければ、誰も天国に入ることができないのに彼は空しく天の父の子となるよう福音を宣教することになるからであり、また彼は聴衆に不可能なことを要求し苦しめるだけの教えを説くこととなり、彼の偽りのない憐み深い生と相容れない。

彼は自己欺瞞者かが問われる。イエスが遵守不可能なことを要求しひとを苦しめるとすることは、憐み深いイエスを自ら裏切るものである。イエスは旧約のなかで新約を打ち立てようとする途上の生を今・ここで遂行している。この説教を「リアルタイムの説教」と呼ぶ。福音書はイエスのその都度の文脈において彼の語録を伝えるものである限りにおいて、リアルタイムの報告書であると言うことができよう。

 他方、彼は「リアルタイムの媒介行為」とでも言うべき天と地を繋げる働きを今・ここにおいて遂行している。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう」と彼と共にいることに平安があると語っている (Mat.11:28)。これは聖霊の派遣の約束ではない。また彼は「二人または三人がわが名のもとに集まるところ、そこにわたしは彼らのまんなかにいる」(Mat.18:20)と言う。イエスを呼び求める者たちが集まるところ、そこに彼が共にいると語る。これも必ずしも聖霊の派遣と理解する必要はなく、イエスが身体的に共にいると言っていると解する文脈も必ずある。

 これはイエスの(1)自己言及であると言え、神の御子にふさわしい。メシヤの秘密で確認したように、彼は自己認識に変化があったわけではない。「神の子の信」のもとに、一挙手一投足において神の国をその肉において持ち運んでいた、ただし、彼とその現場を共にするものとのあいだに限定されてはいるが。また、「ルカ福音書」にはこうある、「パリサイ人にいつ神の国は到来するのかを尋ねられて、イエスは応えて言った、「神の国はまなざしを向け続けているとやって来るものではない、また「見よ、ここで或いはあそこで」と人々が語ることによって、到来するものでもない。というのも、見よ、神の国は君たちのただなかにあるからである」(Luk.17:20-21)。これも「君たち」と呼びかける生身のイエス自身を神の国と同化させている自己言及である。今・ここにおいてイエスと共にいる者たちは不思議な安息と平安、喜びを経験していた。

 イエスの自覚としては山上の説教の現場でも同様でありリアルタイムの言葉による神のみ旨の伝達そのものがリアルタイムの媒介行為である。彼に言葉と実践の乖離なき権威と力がなければ、あれほどのおびただしい群衆が集まることはなかったであろう。その意味において今・ここで福音は実現し、展開されていると言うことができる。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十四

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十四

 (2024.3.8 多摩川河畔にある枡形山は雪の朝です。愛敵について語りました)。

 

愛敵

 イエスは言う、「「隣人を愛し、敵を憎め」(cf.Lev.19:17-18,Ps.139:21-22)と語られたのを君たちは聞いている。しかし、わたしは君たちに言う、敵を愛し、自分を迫害する者のために祈れ。君たちが天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも不正な者にも雨を降らせてくださる。自分を愛してくれるひとを愛したところで、君たちにいかなる報いがあるのか。取税人たちも同じことをしているではないのか。またもし君たちが自分のきょうだいたちだけをもてなすなら、君たちはどんな特別なことをしているのか。異邦人たちもまた同じことをしているのではないか。そのとき、君たちの天の父が完全であるように、君たちは完全であることになろう」(5:43-48)。

 愛敵において神の完全性に倣う者とされている。イエスは家族や隣人と敵を峻別する従来の思考に偽りを見出す。そこでは自らの感情や利益そして被害や危害との関係においてひとを区別していることが図らずも明らかとなり、「愛」の名において差別や支配そして操作が遂行されているからである。そして良心の鋭敏な者たちはそれに同意せざるをえないであろう。敵は友となることもある偶然的な関係にすぎず、ひとがひとである限り本来的に友と友の等しさつまり愛が成立しうる者だからである。愛とは支配からも支配されるところからも唯一自由な心の場所において生起する我と汝(私とあなた)の等しさである。愛敵において、ひとの人生は天の父がそうであるように、「完全であることになろう」と語られる。ここで人生のゴールが明確に提示されており、一般的には「最も望ましい人生は何か?」の問いには愛敵の生と応えることができる。

 二千数百年前「レビ記」の記者により、モーセは「汝の隣人を、汝自身の如くに、愛せよ」と主の律法を取り継ぎ命じたことが報告されている。「汝自身の如くに」により表現している「汝」は自らを愛する愛と同じだけの愛が隣人に向けられねばならないとされている。そのときモーセそしてレビ記記者は愛が等しさの生起であることを知っていた(Lev.19:18,cf.Deut.6:5,10:12)。例えば父と子、夫と妻、教師と生徒等のあいだに、父は子によって父であり、子は父によって子であるその等しさがその都度生起するもの、すなわち、支配からも被支配からも唯一自由な心の場所で我と汝の等しさが生起すること、それが愛であった。「わたしは君たちの神となり、君たちはわが民となる」(Lev.26:12)。そしてその等しさの生起に向かう歩みも希望における「愛」である。その方向にある限り希望が湧いてくるからである。

 

パリサイ人と配分的正義

 山上の説教の論敵は自己満足的なパリサイ主義者である。善きものどもが正しく秩序づけられないとき、二心、三つ心が生じる。イエスはそこでパリサイ人のこの心魂の分裂、欲深さを責めていた。敬虔なパリサイ人は道徳的、司法的そして神の前これら三層を癒着させており、その三心が良心に基づく道徳的次元の純化により偽りとして摘出される。彼らは人々からの称賛により有徳を誇り、律法の形式的遵守により正義を主張し、その結果天国を当然の権利と看做す。彼らはこの世で「現に報いを受け取っている」(6:2,6:5,6:16)。「報い(mistos)」は、その理解において各人にとって利益や快が幸福であるという功利主義的解釈も許容されようが、この世における善行への報酬により善行と報酬のあいだには「現に」等しさが成立しており、さらに将来天における報いがあるとするならそれは過剰となることから、ここではまず比量的、応報的な等しさとしての配分的正義を意味している。これは「目には目を、歯には歯を」に見られるように相対的な正義である(5:38)。彼らの背後に過剰を欲する貪欲が支配している。「羊の衣のうちに君たちのもとにやってくる偽預言者たちを、それは誰であれ、警戒せよ、彼らの内側は強欲な狼である」(7:15)。欲深き者は自らが悪しき者であることを知らない、清さとの対比することができないからである。ひとはコントラストにおいて自らの位置を知る。イエスとのコントラストにおいて自らの穢れを知る。

 とはいえ、いかにも憎悪即殺人、色情視即姦淫、誓い即自己欺瞞、友愛・家族愛即独善、愛敵即無抵抗などの新しい教えは尋常ではない。これらの言葉はそれを正面から引き受けるひとには良心の痛みの発動を引き起こすに十分である(5:22,5:28,5:39)。例えば万引き家族との共知においては万引きに良心の痛みを感じることはないが、次第に共知の相手が鋭くなることにより、痛みの発動の文脈も異なる。イエスとその山上の説教とを共知の相手方とする者たちには、心の少しの歪曲が痛みになる。色情視をめぐって右目や右手が罪を犯させるなら抉りとり切り取ってしまえという警告は実は神自身によるモーセ律法のもとでの認識である。ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。

 

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十三

(録音においては、預言者的な生の八福をおえましたので、これまでのまとめを最初に語りました。途中からお聞きの方はこれまでの要約としてお聞きください。今回からモーセ律法の純化、先鋭化の話です。イエスは一挙手一投足において純化された律法を満たしつつある、その生の前提、イエスご自身の律法理解を語っています。

三・三 山上の説教の倫理学

三・三・一 天と地の透明性のシミュレーション 

 山上の説教は「天国」や「地獄」への言及など宗教的言明の纏まりに相違ないのであるが、イエスは倫理的主題について論じ研ぎ澄まされた良心にとって咎めとなり宥めとなって心に残る信じる者にもそうでない者にも人間一般に妥当する一つの倫理学説として読むことを可能にする議論を展開していると思われる。それはひとの心が光に照らされ一切明らかになるところでの人間の偽りなき生の一つの想定(シミレーション)が展開されていると捉えることができるからである。父と子の人格的な自己完結性を括弧にいれるとしても、そこから導出される普遍的な言明は完全な理解を可能にするものであり、一切を知り正確な審判を遂行する何らかの知性体を前にしてひとはどう振る舞うのが合理的なのかは一つの倫理的問である。

 その明らかさは神の憐みと律法である。一方は自然事象を媒介にし、他方はモーセへの十戒の啓示を媒介にして明らかにされている。ここではまず律法について、イエスがいかなる見解を持つか、そしてこれに関しても彼自身はいかに受け止めているかを明らかにし、それが倫理的地平を形成すること、そしてそれが倫理から福音に移行することにより、律法が満たされることを確認したい。 


三・三・二 律法遵守への尊敬と福音のリアルタイムの実践


 イエスは律法への尊敬のもと自らの基本的な立場を表明する。「わたしが律法或いは預言者たちを廃棄するべく来たと、君たちはそう看做すことがないように。廃棄するためではなく成就するべくわたしは来た。アーメン、君たちに言う、天と地が過ぎ去るまでに、一切のものごとが生じてしまうまでに、律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはないであろう。かくして、これら最小の戒めのひとつを破りそしてそのように人々に教える者がいるならば、天の国においては最も小さい者と呼ばれるであろう。これを行いそして教えるその者は天の国において大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは君たちに言う、もし君たちの義が律法学者たちとパリサイ人たちよりもいっそう優るのでなければ、君たちは天の国に入れていただくことはないであろう」(5:17-20)。

 「聖書」は「旧い契約」と「新しい契約」に基づき編集されている。それは神の意志が「モーセの律法」「業(わざ)の律法」から「キリストの律法」「信の律法」への知らしめにおいて展開されたことに対応する(Rom.3:27,1Cor.9:9.21)。その展開のなかで、イエスは旧約から新約の途上において、神の意志の表れである「モーセ律法」、「業の律法」への衷心からの尊敬を表明し、終末に至るまで「律法から一点一画たりとも過ぎ去ることはない」と主張する。ただし、イエスもパウロも数百の律法を愛の律法に収斂させており、愛が満たされるとき、一切の律法が満たされると解している。神への愛と隣人への愛「これら二つの戒めに律法の一切そして預言者たちは基づいている」(Mat.5:18,22:40)。「愛は隣人に悪を行わない。かくして愛は[業の]律法の充足である」(Rom.13:10)。イエスは預言者的生に与えられる八福に続き、旧約聖書出エジプト記において報告されている神の意志であるモーセ律法(業の律法)を純粋化、先鋭化し、新しい教えを言葉の力のみによって伝える。

 ユダヤ人は自らが選ばれた民として律法を誇り、異邦人や罪人とは異なるという差別的な態度を取っていた。イエスは当時のユダヤ人の伝統的な道徳観そして死後天国か地獄に行くという世界像を自らも引き受け、議論の前提を彼らと共有することに基づく対人論法(argumentum ad hominem)により、自己義認の自己満足のうちにいるパリサイ主義者の道徳的不徹底さを、さらにはこの世もあの世もという二心に潜む偽りをモーセ律法の急進化、内面化そして純化により指摘する。その論法はまず定型句で「君たちは聞いている、昔の人々によりこう語られたのを」と切り出して、その言い伝えを引用する。伝統的な教えを提示したのち、「しかし、わたしは君たちに言う」と切り返し、それらの問題点を摘出する。ここでも一人称「わたし」が語られ、律法の純化の背後にイエス自身が満たしつつありまた最後まで満たすであろう神のみ旨・み心が開示される。「あなたのみ旨が天におけるごとく地においても成りますように」(6:10)。ここではそれは具体的に殺人、姦淫、離婚、誓い、同害報復、敵への憎しみをめぐって展開され、道徳的次元が内側から突破される。つまり彼らの立場は首尾一貫せず保持できないことが内的に論駁される、そしてそのうえで律法成就の道を知らしめる。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十二

 (録音では理論(ロゴス)と実践(エルゴン)の相補性について、水や空気、光のような恩恵の枠のなかで生きるように無矛盾な福音の枠の中で生きることの自然さと恩恵について語っています)。2024年3月6日

天の国

 イエスは様々な場面で悲しむひとであり、柔和であり、義に飢えそして渇いており、憐み深く、その心によって清いひとであり、平和を造るひとであり、それ故に義の故に迫害された。これら八つの態勢にある人々が祝福されるのは、ひとえに、天国に招かれるからである。かくして、天国の住人はそれぞれ掛け替えのない個性を持ちながらも、すべてイエスに似た人々であるに相違ない。イエスのような人々が住む天国になら、他の何をおいてでも行きたいと思うことであろう。「天国は、畑に隠されている宝に似ている、或るひとがその宝を見つけると、隠したそして喜んで自分の家に戻り、そして彼が持っているあらゆる持ち物を売りそしてかの畑を買う」(Mat.13:44)。ひとはここに逃避的な宗教の嫌な臭いを嗅ぐでもあろうが、この人生を正面から引き受ける限りにおいて、最も透明な清い場所との関連でこの世界を秩序づけることは非難されることではないであろう。

 天国についての思弁、妄想は旧約聖書においてはほとんど見られない。これは著しいことである。ユダヤ教の一派であるサドカイ派は復活を否定していた(Mat22:23)[i]。この不可視な世界にアクセスが可能であるとすれば、神の身許から栄光を捨ててひととなったイエスにより理解するしか確かなことは言えないであろう。それ故に、天国のことがらは信仰の問題となる。即ち、心魂の根源において自らがイエスのような人間であるかを問い、彼我の乖離において天国の清さ、完全さを知るに至る、それ以外のアクセスはないと思われる。そしてそれが最も正しい、神の国、天国に対する態度となる。旧約人はキリスト・メシヤを預言においてしか与えられてはおらず、彼らは知らされていない事柄について思弁を弄することはなかった。これは潔い態度であり、それができたのも、生けるまことの神のその都度の畏れ敬うべき顕現に心が圧倒されていたからであろう。

 イエスはその伝統のなかで天の父への直截で親密な祈りを教える。「天にいますわれらの父よ、あなたの御名が聖とされますように、あなたの御国が来ますように、あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも。われらの日用の糧を今日もわれらにお与えください、そしてわれらの負債をわれらに赦してください、われらもわれらの負債者たちを赦してしまっておりますように。われらを試みにあわせず、われらを悪からお救いください」(6:9-13)。

 

「平和を造る者たち」

 旧約人とは異なり、彼の軛に繋がれて共に歩むとき、その歩みは疲れを癒し、喜びを与えるものとなる。柔和な者はそのまま喜びと平和を造る者となる。イエスは平和を造る君であった。「祝福されている、平和を造る者たち、彼らは神の子たちと呼ばれることになるからである」。イエスは「わたしは既に世に勝っている」また「わが御国はこの世界に基づいていない」とも言った(John. 16:33,18:36)。パウロも語る、「われらの国籍は天にあり」(Phil.3:20)。平和を造る者は「神の子」と呼ばれるであろう。宝を天に持つ者はこの世界で争わず、譲ることができる。平和を造る者は信仰の存否にかかわらず、柔和であることをめぐっては誰もが同意するであろう。というのも、競争心や闘争心、支配欲の強い者は平和を造る者とはなれないからである。彼らは正義の名においてひとと争うことを辞さないからである。「主は羊飼い、わたしには何も乏しいものはない。主はわたしを青草の原に休ませ憩いの水のほとりに伴い魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(Ps.23:1-4)。

 神はこの約束を守るべく、御子を地上に派遣した。平和の君イエスは驢馬(ロバ)の子に乗ってやってくる平和の君であった(Mat.21:1-11)。ゼカリアは預言する。「娘シオンよ、大いに踊れ。・・歓呼の声をあげよ。視よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる。雌驢馬の子であるろばに乗ってくる。わたしはエフライムから戦車をエルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ大河から地の果てにまで及ぶ」(Zek.9:9-10)。預言されたまたそれを遂行するイエスの低さ故に人類は平和への希望を持つことができる。

 

自己完結的な一つの体に繋がる一部位

 イエスと共にある平安は次第に隣人に伝わっていく。そしてキリストにある一つの体を形成していく。キリストと共にいる限り、ひとは彼を介して一つの有機的な体を構成すると考えられている。イエスは言う、「わたしは葡萄の木、君たちはその枝である」(John.15:5)。パウロは言う、「君たちはキリストの体でありまた諸部分に基づく肢体である」(1Cor12:27)その特徴はパウロによれば機能はそれぞれ異なるが同じ思いを持つということ、即ち、キリストとの関連において一切を考察するようになるということである。「われらの主イエス・キリストによってわたしは君たちに勧める、それは君たちが皆同じことを語りそして君たちのあいだに分裂がなく、君たちが同じ叡知においてまた同じ認識において秩序づけられてあるためである」(1Cor.1:10)。「かくして、もしキリストにある何らかの援け、愛の慰め、霊の交わり、憐み、そして慈しみがあるのなら、君たちわが喜びを満たせ。それは君たちが同じ愛を持つことによって、一つのことを思慮することによって、君たちが同じことを思慮する[に至る]ためである」(Phil.2:1)。それは一つの体に与かっているからである。「われらが裂くパンはキリストの体の与りではないのか。パンは一つであるがゆえに、われら大勢であるが一人である、というのもわれらは皆一つのパンに与るからである」(1Cor.10:17)。

 福音の自己完結性のもとキリストへの帰一的なかかわりを持つ限り、ひとはそれぞれの個性を持ちながら同じ思いを共有し、それぞれの特徴をその一つの体の働きのために発揮する。葡萄の木であるイエスに繋がれている限り「多くの実」を結ぶとされるが、それは何よりも農夫である父なる神が喜ぶものである。それは天国における果実であり、必ずしもこの世の成功ではなく、自らの自然的な与件の能力の数十倍の実りをもたらすこともあろう。ひとは自己完結的に既に成就された完全性においてあるキリストにつらなるとき、それは彼の体の各部位として繋がる(1Cor.12:12-27)。まずわれらに求められているのは信仰により神との正しい関係にはいることである。そのとき、ひとは一つの体の一部位であり、自らの役割を知るに至る。

 

三人称から二人称への変換にせり出す自己言及

 第八福まで三人称による祝福者の規定であったが、最後に山上の聴衆に「君たち」と二人称で呼びかけ、イエスは自らについてくるように励ます。「君たちは祝福されている、ひとびとがわがために君たちを非難しそして君たちについて偽ってあらゆる悪しきことを語るとき。喜べそして大いに喜べ、天における君たちの報いは大きいからである。というのも、彼らはこの仕方で君たちに先立つ預言者たちを迫害したからである」。イエスに従う者たちに彼は「わがために」迫害される者となることの覚悟を求めている。八福の一般的な三人称から二人称への変換による聴衆への祝福の語りかけにおいて、この人称の変換は臨場感、現場感を伴い緊張をもたらす。

 八福はイエスが自ら生き抜く心的態勢であり、彼はそれを実践しているなかで、聴衆にも新しい福音の担い手となるよう励ます。実際終末預言においてイエスはこう語る。「そのとき彼らは君たちを困窮に追いやりそして殺すであろう。そして君たちはわが名の故にあらゆる民に憎まれるであろう」(Mat.24:9)。実際三世紀後半までキリスト教徒への迫害は歴史に刻まれた。歴史の終わりまでイエスの名の故に地の塩、世の光としての役割を担う者となるようイエスの話を聞いてしまった「君たち」は励まされている。それほど神のみ旨は目覚めた者においてのみ遂行されうるものである。「祝福」の諸相において確認してきたように、イエスは旧約聖書が自らの生の預言でありまた保障であると信じている。三人称で語られた八福も実は間接的には語るイエス自身の(1)自己言及であった。それ故にこれも彼は神に祝福された者であったという信によってしか突破できないそのような祝福である。

[i] 千葉惠「聖書の死生観―旧約における待望の蓄積から新約の時の満ち足りへ―」『死生学年報2022』(東洋英和女学院大学死生学研究所編 2022)。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十一

(録音では信仰と憐みの関係を解説しています)。2024年3月3日

「憐れむ者たち」

 イエスはその心によって清く、憐み深かった。「彼は群衆が羊飼いのいない羊のように弱りはて、うちひしがれているのを見て、深く憐れんだ(esplagchnisthē)」(Mat.9:36,cf.14:14,20:34,Mak.1:41、6:34)。イエスは羊飼いのいない羊のように彷徨って他に寄る辺なく彼についてくる群衆に「腸(はらわた)(スプランクノン)」即ち心の底から身体的反応を伴い苦痛を感じた。そして彼は群衆を救いだすべく神の国について「多くを教えた」と報告されている。「祝福されている、憐れむ者たち。彼らは憐れまれることになるからである」。心清い者のみが憐れむ者となる。

 福音書のイエスの言葉に、小さな者への憐み、愛が福音のもとに生きている証となるとされる。イエスはどのようなひとが憐み深いひとかを、競争や怒りや憎しみなどの争いに明け暮れている者たちとのコントラストにおいてこう語る。「[イエス]「わが父に祝福された者たち、天地創造のときから君たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。君たちはわたしが飢えていたときに食べさせ、喉が渇いていたときに飲ませ、・・病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからである」。・・「主よ、いつわれらは飢えておられるのを見て食べさせましたか・・」。・・[イエス]「この最も小さい者の一人に為したことは、わたしに為してくれたことである」。・・[イエス]「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下の為に用意してある永遠の火に入れ。君たちはわたしの飢えているときに食を与えず、・・裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに訪ねてくれなかった」。・・「主よ、いつわれらはあなたが飢え、渇いたとき・・世話をしなかったのですか」。・・[イエス]「まことに言う、この最も小さい者の一人に為さなかったのは、わたしに為さなかったことなのである」」(Mat.25:34-45)。

 これら二種類の生の規準は何であろうか。人間の本来性の理解のもとにひとをそして隣人をリスペクトし、ひととして困窮している状況に出会ったとき、その状況は天の父の子としてのわれらに相応しくないという明確な認識である。「憐み(eleos)」は一般的にその当人に相応しくない困窮を蒙ったひとに向けられる感情である。アリストテレスは「憐み」を定義して言う。「憐みとは、破壊的な或いは痛ましい悪がそれに相応しくないひとに(tū anaxiū)降りかかっているように見えることに伴う一種の苦痛である、その悪しきことはそれが近づいているように見えるとき、自分や周囲の誰かが蒙ることを自ら予期するところのものである」(Rhet.II8,1385b13-15)。この人間同士の間で生じる憐みが生起する文脈は自然界のことがらであれ人間同士のことがらであれ悪しきことがそれを蒙るに相応しくないひとに降りかかっている場合に生起する感情である。その憐みの感情実質はある種の痛みを伴うとされる。

 イエスが何故彼についてくる群衆を「深く憐れだ」かと言えば、人間は、本来、愛に満たされている天の父の子であり、それに値しない、相応しくない(anaxios)悲惨な現状を目にしたからであり、その憐みは痛みを伴いつつ同情、共苦、共感として抱いたのであった[i](Mat.9:36,cf.Mak.1:41,Mat.14:14)。イエスが山上の説教を生命をかけて生き抜いたのは「天の父の子」である同胞になんとか神の国の消息を伝えたかったからである。

 イエスの「この小さな一人にしたことはわたしにしたことだ」という発言において明らかなことは、イエスは困窮した人々に自らを重ね合わせていたことである、少なくとも共にいるということである。ひとは一度でもこのような視点をもったことがあるかが問われる。誰か知らない人々が悲惨な状況にある人々に何か食べ物を送ったときに、「ありがとう、わたしに食べ物をくれてありがとう」と言ったり、受け止めたりしたことはあったであろうかが問われる。キリストの受け止め方が自らのものにならないということは、自らのパトス(身体的受動、感受性)が今後変わっていくかもしれないという手がかりを得たと言うこともできよう。少なくとも「叡知の刷新により変身させられよ」における変身とは態勢そしてパトスにおいてもキリストに似た者になることに他ならない(Rom.12:2)。パウロは「わたしが生きているのではない、キリストがわがうちにあって生きている」とまで言う(Gal.2:19)。ひとの心的態勢はどこまでも途上であり、イエスに似た者になるにつれて、神のみ旨を実現していくことになる。そうすると、イエスの(1)自己言及は間接的にその都度われら個々人を介することになる。栄光と悲惨、光と闇、成功と失敗、知と無知、善と悪、コントラストによりひとは憐みを知るに至り、隣人が自らと等しさにおいてあることを知る。イエスにおいてはこの憐みが癒しなどの不思議な業を実現させた、ただし相手に信がないときにはその憐みを遂行できなかったとされている(Mat.8:58,Mak.6:5)。憐みは自ら愛されたことの信を前提にしておりまた信頼関係のないところでは肯定的な力が遂行されるないからである。魔術師シモンが自らの力の誇示の為にペテロから奇跡をおこなう力を金で買おうとしたが、そのような心にはイエスの心は宿らない(Act.8:9-24)。山上の説教はイエスの清さにふさわしい。他の誰が語っても偽りになってしまうであろう。真の人間においては山上の説教を生きることが人間にふさわしい、神のみ旨がそこにあらわされているからである。

[i] Kittel,Theological Dictionary of New Testament VolII.p.477 eleos (Stuttgart 1964).

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十

 春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その十

 録音には本稿を読んだ読者の方(『信の哲学』上巻を四度、「身代わりの愛の力能」(「方舟」61号)を七度読まれた医師の方)から適切な感想を頂きそれを紹介しました。なおヴェーダー『山上の説教』(峰重訳 日本キリスト教団出版局、2007)における山上の説教と倫理の断絶を紹介しました。ヴェーダーの説を文章でも紹介しておきます。「神支配はあらゆる報復の終焉を
もたらすものであり、そしてそれゆえに、すでに今、応報を終わらせることが適切である。この異質性は、一切結果に方向づけられていない倫理がここに現れていることと関係している。その倫理は、抑圧者がどの程度そこから利益をうるかという点は気にかけていない。一方でそれは、良い結果を伴わずに行為を動機づける。その意味でこの倫理は、効果がないゆえに不正であるという抗議に先んじている。行為はこの世におけるその目的に基づいてではなく、神支配におけるその起源に基づいて考察される。これは倫理的なもののあらゆる終局化の終焉である。・・・イエスは神の要求をまったくのところ、神観念から「今」へと突入してくる神支配から描くのである。・・このことはこの世的にも肝に銘じておくべきことのように私には思える。あまりに多くの悪事が、立派な木j的のためにすでに実行されている。この目的に方向づけられた倫理は、なおこの世の尺度へと組みいれられ得る。立派な目的にではなく、ただ善そのものに方向づけられた倫理は異物であり、異物のままなのである。問は、現代の世界において、そもそもそのような異質な倫理にどんな意味があるかということだろう」(嶺重訳 p.164-65)。山上の説教は倫理的なものの終焉ののちに位置づけられるとする異質性の主張は、本稿における「信じる者にも信じない者」にも理解できる倫理地平をイエスは明らかにしているという立場とまったく異なる主張である。本稿では「福音」の独自性は確保されるが、それとの関連で他の三つの種類のイエスの語りが展開されていることまた実践的な効力を持つことを論じました。2024年3月1日


穢れ

 清さとの対比されるもの、その対義語は「穢れ」である。眼がくらむとはまさに貪欲によりわれらの生が引きずり回されることに他ならない。イエスは「汚れた霊(akatharton pneuma)」の譬えを語る(Mat.12:43)。譬えの分類からすれば、これは宗教的な観念についての事例による説明であり「例話(Beispielerzählung)」と呼ばれるであろう。悪霊の存在を認めない者も悪い人間が一層悪くなることを認めることができるなら、一つの説明として理解できよう。例話によれば霊はウィルス同様宿主を必要とする。「穢れた霊は、そのひとから出ていくと、砂漠をうろつき休む場所を探すが、見つからない。そのとき言う、「そこから出てきたわが家に戻ろう」。戻ってみるとそれは空き家になっておりまた掃除が為されており整頓されているのを見出す。そこで出かけてゆき、自分よりも悪い他の七つの霊を一緒に連れてきて、中に入り込み、住みつく。かのひとの最後は最初よりも一層悪くなる。この悪い時代によってもまたこのようになるであろう」(Mat.12:43-45)。

 「空き家」とは心の隙間、空虚のことである。これは人生の空虚感として誰もが何らか経験していよう。空虚な油断した心に霊は自分よりも悪質な七つの悪霊を引き入れると、そのひとの内面は一層悪くなる。ひとは何か自分とは異なるものにより引き回され、自らをコントロールできないそのような感覚を持つことがある。現代人は自らうみだしたテクノロジーをもはやコントロールできず、手をこまねいてその人工的産物の特異点までまたその自然的影響による破局を待っているように見える。この七つの悪霊の話はそのような状況を思い出せば理解できる。自らと人類の心の内奥の動きを観察することが求められる。パトスと呼ばれる、自分でコントロールできずに湧いてくる感情や欲求なども、単に生理的なものというわけではなく、その背後に自らの心魂を破壊しようとする否定的、破壊的な勢力を見出すこともあろう。

 パウロは心に葛藤を引き起こすように勧める。「わたしは律法は霊的なものであると知っているが、他方、わたしは肉的なものであり、罪のもとに売り渡されている。というのも、わたしが[最終的に]成し遂げるところのもの[死]をわたしは認識していないからである。というのも、わが欲するところのもの[霊的な律法に従うこと]を為さず、憎むところのもの[死]をわたしは作りだすからである。しかし、もしわたしが欲せざるところのものを作りだすなら、律法にそれ[律法]が善きものであると同意している。しかし、今やもはや、わたしがそのもの[死]を成し遂げるにあらず、わがうちに巣食っている罪が成し遂げる。なぜなら、わがうちにつまりわが肉のうちに善が宿っていないことを、わたしは知るからである。というのも、善美を欲することはわたしに備わるが、それを成し遂げることがないからである。なぜなら、欲するところの善をわたしは作らずに、欲せざるところの悪をわたしは為すからである。しかし、もし欲せざるところのものをわたしが為すなら、もはやわたしがそれを為さず、むしろわがうちに巣食っている罪が為す」(Rom.7:14-20)。この発見は聖霊の発見との対比において認識されることがらであろう。空虚な者は「その霊によって貧しい者」となるかがその分水嶺となる。

 心の清さと空き家、即ち心の空虚さは別である。その心によって清いものは心魂の根底から純なる一なるものに思いを寄せており、二心から自由である。心から信仰のもとにあるとき、心は満たされているため空虚になることはない。幼子の信仰がそこにはある。

 しかし、清さ、混じりけのなさを人生において追求することへの反論が提示されよう。「清濁併せ呑む」ことこそ大人の条件である。免疫系に見られるように異質なもの、複雑なものが自己を構成していたほうが強いのではないか。「良心の発動なぞくそくらえだ、善も悪も嘗め尽くせ」。ニーチェはこの良心の発動は「何故?」への問いのブロックとして機能すると言う。「良心からあの「ねばならない」という感情が引き起こされたのだが・・・しかしこの感情は「なぜ私は為さねばならぬか?」とは問わない。従って、あることが「~故に」とか「何故~」という問いをもってなされる場合にはすべて、人間は良心なしに行為するということになる」[i]

 確かにわれらは屁理屈をこね、良心の発動を紛らわせようとする。どこまでも良心は麻痺しうるものであり、強者は思うがままに振る舞う。良心を持ち出す人間は弱者であり、強者への怨念があるからこそ、平等を語り、社会的弱者の救済を語るのではないのか。「強者の利益こそ正義である」(プラトン)とは古来語られてきた陳腐なことであると言える。

 しかし、身体においても痛みに気づかず麻痺してしまったなら、どこまで身体が破壊されているかわからないように、良心が麻痺してしまったなら、どこまで心が悪くなってしまうかわからない。われらの心が清くないから、そういう者たちが祝福されていると思われるのである。「聖性の霊」(Rom.1:4)に即して神の光に照らされるとき、或いはそうでなくとも内省により自らの過去に思いを致すとき、穢れに気付き、良心が疼く。清いイエスをより知ることにより清さへの憧れを持つに至る。この説教は霊に訴えることなくまた「善人と悪人」の判別以前、道徳以前のことがらとして光や心や肉体の痛みのような自然的事象に神の憐れみを見る。自然事象が神の支配のもとにあること、この点については、イエスはきわめて自覚的である。

 

信の根源性―穢れからの悔い改め―

 或る時、イエスは群衆が押し寄せてきたため、ペテロに船をだすよう依頼し、船の上から説教した。そのあとペテロに漁にでるように勧めた。「二艘の舟を魚で一杯にしたので、舟は沈みそうになった。これを見たシモンペテロはイエスの足許にひれ伏して、「主よ私から離れてください。私は罪人です」」(Luk.5:8)。大漁であることと自らの罪、穢れの告白といかなる関係にあるのか。ここで実はペテロに漁に出るよう勧めたとき、ペテロは疑ったのであった。昼間だったからである。ガリラヤ湖では夜が漁に適しておりそして昨夜も不漁であった。この伏線のもとでの大漁であった。自ら疑ったペテロの告白は聖なる清らかな方を前にして咄嗟にでた言葉である。「主よ私から離れてください。私は罪人です」。聖なるものに触れたとき、われらは畏れに捕らわれる。同様に、子の癒しを懇願する父は言った。「おできになるなら、憐れんで助けてください」。そうするとイエスは言われた。「「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる」。その子の父はすぐに叫んだ。「信じます。信なきわれを憐み給え」(Mak.9:23-24)。

 イザヤは畏れ慄きつつ神を賛美する。「聖なる、聖なる、聖なるかな万軍の主。主の栄光は地をすべて覆う。・・万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。汝が畏るべき方は主、御前に慄(おのの)くべき方は主」(Isa.6:3,8:13)。ひとは疑い、多くの惑わしに捕らわれているとき、清い者ではない。ひとは信じることができない自らに不十全性、分裂そして罪を見出す。「おおよそ信に基づかないものごとは罪である」(Rom.15:23)。イエスを介して神の意志を知り、イエスを介して一切を知る神にまみえる。神の存在を認めない者も、一切が自己完結的な明徴さにおいてある場合に、ただし一切を見通せない肉の弱さにおいてある人間には事柄そのものが次第に明らかになるという想定、シミュレーションのもとで、倫理学を構築することはありうることである。この想定も、いずれ人間も認知的に十全な者となるという一種の信により支えられている。

[i] ニーチェ『人間的あまりに人間的 Ⅱ』「漂泊者とその影」五二、中島義生訳、三一五頁(ちくま学芸文庫 一九九四)。ただし、パウロは良心の内容が「幼少時代のわれわれに、・・かつて尊敬したり恐れたりした人々が理由なく規則的に要求したものの一切」という見解には同意しないであろう。彼は「共同―証人」に神を挙げることもあり、自らの刷り込みによるものではないとする。

Read More
Noborito Dorm Master Noborito Dorm Master

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九

春の連続聖書講義:山上の説教における福音と倫理その九

 (録音では感情の文法そして良心の解説がなされています)2024年2月29日

「悲しんでいる者たち」

 イエスは友ラザロの死にあってまたオリブ山からエルサレムの陥落の日を思い「涙を流した」(John.11:35,Luk.19:41)。「祝福されている、悲しんでいる者たち。彼らは慰められることになるからである」。感情の文法によれば、愛しいものを喪失するその文脈において悲しみを感じる。この喪失感を味わうことのない者は愛を知らない者である。「愛から遠ざかれば、すべてから遠ざかる」(パスカル)のであり、生きることそのものから遠ざかってしまうであろう。

 

「柔和な者たち」

 イエスは柔和であった。「疲れている者たち、重荷を負う者たちはみなわたしのもとに来なさい。君たちを休ませてあげよう。わたしの軛(くびき)を担ぎあげ、そしてわたし[の足取り]から、わたしが柔和でありその心によって低いものであることを学びなさい。そうすれば君たちは君たちの魂に安息を見出すであろう。というのもわたしの軛は善きものでありそしてわたしの荷は軽いからである」(Mat.11:28)。彼は彷徨(さまよ)うひとびとを招く、彼の善き軛そして軽き荷とは誰もが幼子の如くであればもちうる信・信仰のことであった。彼の軛に繋がれ彼と共に歩むとき、イエスの歩調から柔和と謙遜が伝わる。「祝福されている、柔和な者たち。彼らは地を受け継ぐことになるからである」。地を受け継ぐとは先祖の土地を継承することであるが、ここでは天の国を受け継ぐことを意味していよう。「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業(しぎょう)を受けました」(Ps.16:6)。

 イエスの軛に繋がれ歩調に合わせて歩むとき、天に招きいれられることであろう。その彼はこの地上で栄光を捨てひととなったその低さ、そしてそれに基づく弱小さへの憐みと柔和を生き抜いた。「彼は神の形姿にいましたが、神と等しくあることを堅持すべきものとは思はずにかえって僕の形姿を取りご自身を空しくされた。人間たちの似様性のうちに生まれ、そして[生物的な]型においてひととして見出されたが、この方は死に至るまで、十字架の死に至るまで従順となりご自身を低くせられた。それ故に神は彼を至高なるものに挙げられたそして彼に名前を、万物を超える名前を授けられた」(Phil.2:6-8)。キリストと共に担う軛と荷とは自らが神の子であるとの信仰により柔和と謙遜のうちに歩むことである。キリストの低さと共にあることによりこの世とその比較の世界から解放された者に伝わる生の喜びと軽やかさが自由にされた生に力を与える。イエスにより誇りが取り除かれ「柔和の霊」を受け取った者は謙遜を学び自らより弱小者への憐みを抱き、義に飢え渇く者となり、強者からの不公正や侮辱そして迫害に耐え、平和を造る者となる(Gal.6:1,Mat.5:9)。

 

「義に飢え渇く者たち」

 イエスは義に飢え渇く者であり、義のために迫害される者であった。「祝福されている、義に飢えそして渇いている者たち。彼らは満たされることになるからである。・・祝福されている、義のために迫害されている者たち。天の国は彼らのものだからである」。彼は「君たちの義がパリサイ人のそれに優らなければ天の国に入ることはできない」と律法の義・正義の厳粛さを揺るがせにせずに、その正義は愛敵に至って初めて満たされると主張した(5:20)。愛敵において「神が完全であるように、君たちは完全な者となるであろう」と語られている(5:48)。義に飢え渇く者とは正義、公正、等しさの分配の不在に苦しむ者たち、例えば、戦争や犯罪等による理不尽な死等の経験者とその加害者たちがそうである。預言者は為政者の不義な圧制のもとにありながらも、神の言葉を預かり審判と解放の希望を語るが、それ故に洗礼者ヨハネに至るまで迫害された。このような正義の実現を求めることとは別に、それとは異なる義を求める者たちがいる。彼らは敵を愛することのできない自己を見出し、その良心の咎めを感じるその霊によって貧しい者、義に飢え渇く者であり、祝福される。預言者的な義人と共に、二心や私心なく心清く、真理を求め正邪を明らかにする信念をまげない者たちの祝福が語られている。

 

「その心によって清らかな者たち」

 第六福の「その心によって」清らかな者たちも、「その霊によって」貧しい者と同様の与格構文であり、統一的な行為主体を表現している。心の清さは心に二心、三つ心がないことであり、心が一つに秩序づけられている。「祝福されている、その心によって清らかな者たち、彼らは神を見るであろう」。イエスの復活は心の清さの結果であり、永遠の生命を得たのは彼が天の父の子の信仰に生きたその清さによるものである。復活は、再び死ぬ蘇生とは異なり、人類の歴史においては彼にのみ生起したため、再現性はなく信仰によってしか突破できないことがらである。

 イエスは言う。「誰も二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。君たちは、神と富とに仕えることはできない」(6:24)。「その心によって清い者」とはその心の目が光のように明るく澄んでおり、ものごとがよく見え最終的に「神を見る」者とされている。「灯をともして、それを穴倉のなかや、升の下に置く者はいない。ひとが入ってくるとき光が見えるように、燭台のうえに置く。君の身体の灯は目である。目が澄んでいれば、君の全身が明るいが、濁っていれば、身体も暗い。それだから、君のうちにある光が暗くないか吟味せよ。かくして、もし君の全身が明るく、何か暗い部分をもたないなら、灯が明るさによって君を輝かすときのように、全体を輝かすものとなるであろう」(Luk.11:33-36)。山の上にある街は隠れることがなく、周囲から仰がれる。そのように「世の光」はこの世界をよく見えるようにすることにより天と地を繋ぎ支え、導く(5:14,cf.Phil.2:12-15)。

 心の清い者、清くされた者は神を見る。ヨブは悲惨のただなかで仰ぎ見る、「私は知っている、私を贖う方は生きておられ、ついにはその方は塵のうえに立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る。ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る」(Job.19:23-27)。清い者はその心の分裂から解放されている。「君たちのおのおのがその心から兄弟を赦さないなら、天の父も君たちに同様に赦さないであろう」(Mat.18:35)。天の父の嘉みを得るか否かは、心から隣人を赦し愛しているかにかかっている。その者は分裂がなくその心によって清くされている。

 

良心

 かくして、清さは身体全体に行きわたる「良心」と密接な関係にある態勢である。「良心」は「共知(sun-eidēsis, con-science)」である。良心は、例えば宮に奉納しようとする途中に、誰かが自らに敵意を抱いていることを「思い出したなら」(5:23)という仕方で突然働く一つの知識である。引き返し仲直りしてから、神に捧げものをせよと言われる。偽りの礼拝になるからである。これが共知であるからには、ひとの生は家族などの与件を出発点に神に明らかなことがらが自らや隣人にも明らかになるその共知を求めての探求のそれとなる。最終的には良心とは神に明らかなことがらが自らにも明らかになるその心の認知的座であり、神と共に知ることが良心の究極の働きとなる。「かくして、われらは主の恐れるべきことを知っているので、人々に説き勧めるが、われらは神には明らかになってしまっている。だが君たちの良心にも明らかになってしまっていることをわたしは望んでいる」(2Cor.5:10-11)。

 山上の説教を語ることをイエスに動機づけるものは人々の「良心」の可能性への彼の信である。彼は次第に形骸化して伝承されるユダヤ教の伝統の改革者として、神の言葉に生命を取り戻し、端的に神の意志、み旨を語り掛ける。「天にいますわが父のみ旨を行う者が天の国に入れていただくことになる」(7:22)。「み旨・み心(thelēma)」とは神の人間に対する意志、人間認識であり、神が価値あると看做すものが人間にとっても価値あるものである。「君の宝があるところ、そこに君の心もある」(6:21)と語られるように、たとえひとは自ら追い求める美や善きものの価値を主張したとしても、その宝が次第に神のみ旨と合致するようにイエスは教える。彼は祈りを教える、「あなたのみ旨が成りますように、天におけるように地の上でも」(6:10)。

 天の父は御子をわれらに無償で捧げている。それ故にキリストが共にいることを心から焦がれるかが問われている。心がキリストのように清くなることを宝とするかが問われている。そしてそこではものごとが良く見え、最後のところ天の父に守られ導かれていることをも知ることができ、感謝し栄光を神に帰する。この一貫性こそ神に嘉みされる。清い者は神を見るであろう。

Read More